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■空果

【タイトル】 Cry for the Moon
【作者】 空果

 大切にしたかったものは、余すことなく手のひらから
零れ落ちていった。

 作戦終了を告げる夜明けまでは少々時間があったが、
腕に負った切り傷は今もじくじくと存在を主張してい
た。
はっきりとは確認していないが、処置した下から血が
流れているのは解った。そろそろ包帯にも滲んだ頃だろ
う。
腰を置く草むらに乱暴に寝転んで、高い木立から覗
く、傾いた杯の輪郭をした月を見上げて時を待つ。
そうしているうちに、傷を負った方の腕が自然と宙へ
伸びた。
月の杯から零れた何かを掬おうとするように手のひら
は器を形作るが、隙間が空いていては何を掬える筈もな
い。知っている筈なのに、どれだけ力を入れても隙間は
閉じてくれず、黒く滲んだ包帯だけが月に照らされ鮮烈
に浮かび上がる。

 ——大切にしたかったものは、余すことなく手のひら
から零れ落ちていった。

 大好きだったたった一人の母は、自分の知らない場所
で命を絶った。
かけがえの無い存在だった女性(ひと)は、自分がこ
の手で命を奪った。
自分に関わってしまったから、自分が関わってしまっ
たから、大切な人はみんな死んでしまった。
そう信じたからこそ、本心を隠して、隠して、隠し通
して、必要以上の干渉をしなかったのだ。
踏み込んでしまえば、また誰かの命が零れ落ちてしま
うかもしれない。二度と掬うことの出来ない場所へ堕ち
てしまうかもしれない。
あんな思いは、二度としたくない、と。自分勝手な理
由で仮面を被り続けた。

 ——聖杯のような輪郭を模ったそこに、注がれたのは
昏い虚構と、黒い絶望でしかなかった。

 望まなかったものを、手にしてしまったこと。
望むべくもなかった筈のものを、手に入れてしまった
こと。
優しくて、あたたかくて——かけがえのない存在に
なった人達。
たくさんの大切なものを手に入れることで——ようや
く、仮面を捨てることが出来たのだ。

 大切にしたかったものは、余すことなく手のひらから
零れ落ちていった。
聖杯のような輪郭を模ったそこに、注がれたのは昏い
虚構と、黒い絶望でしかなかった。
——けれど、手のひらには、確かに希望が残ってい
た。

 深い闇に沈むばかりだった世界に、光をくれた人がい
た。
昏い夜に身を委ねるばかりだった自分に、朝をくれた
人がいた。

(歩いていいのだと、言われた気がした)
大切な人が目指した、いつか辿り着く場所。
妹分と誓ったその場所で、待っていてくれたらいいと
思う。
もう二度と、死を望むことはしないと決めた。
もう、絶望は要らない、欲しくない。
(大丈夫、やから)
誰かの力を借りなくても、誰かの力を借りてでも、伝
えに行こう。
長い永い宵闇を抜けたその向こうに、いつか見た光が
待っていてくれるなら。

 夜の向こうで月は沈み、もうすぐ夜が明ける。
横たえた身体を起こし、夜明けの寒さに一つ身震いし
て、訪れる朝を迎えるためにそっと目を細めた。
水平線から覗く太陽は何処までも気高く、放つ光は遠
く空を指し示していた。


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