吐息 Shotr Stories
 [ 第三回 ]


「やれやれ、ここらでいいだろう」
青年は少年を放し、大きな手のひらを布代わりにして額をぬぐった。
市場からは、だいぶ離れた街角。
日干しレンガの四角い家がきっちりと並んでいる。
通りの端には、シュロの木が葉を重ね、影の織物を作り出していた。
背の高い青年は葉陰に入り、大きな口の端を引っ張って、にいっと笑った。
人なつこい笑顔にひかれて、少年もまた、涼しいシュロの葉陰に入った。
少し離れた区画から、セクメトが走ってくる。
雌ライオンは息を荒くしながら追いついて、主人の脚にすり寄り、猫のようにのどを鳴らした。
少年は、汗ばんで頬に張りついたカツラの毛房を払い、青年を見上げた。
葉陰から斜めに入った光が青年の面長な輪郭を描き出している。
髪はボサボサの伸び放題で、カツラもかぶっていない。
やけに幅広な肩からは、筋張った長い腕がひょろりとぶら下がっている。
胸にも腹にも脂肪はかけらも見当たらず、撫でたら音楽が奏でられそうなほど、肋骨がはっきり浮き出ている。
骨張った腰には薄汚れたロインクロス(腰布)を巻きつけ、外股気味に開いた長い脚の先に、破れかけのサンダルをつっかけていた。
葉陰に入り込んだ風が青年を吹き上げると、イチジクの香りが甘く舞った。
「ああ、そうそう」
青年は、ロインクロスのへその辺りにできた襞を探った。
小さなイチジクがひとつ、出てくる。
「食べる?」
青年は、ちょっと背中を丸め、少年の鼻先にイチジクを突き出した。
思わず眉をしかめる少年。
なんてところから、なんてものを…
「汚くないよ。
 さっき、屋台から失敬したばっかりだからさ」
青年は片目をつぶり、もう一度すすめた。
少年は、つい、横を向いてしまった。
「きらいなのォ?」
青年は子供に問い掛けるように語尾を上げ、大げさなため息をついた。
「育ちのいいお人は、皿の上に載ったものしか食べないんだろうけどさ…」
と、言って一口かじる。
「…うー、酸っぱい。あんまりうまくねぇな」
青年はじゃりじゃり音を立てながら、種ごと果肉をかみつぶした。
「ま、イチジクも食えないようなお姫様は、市場なんざァ、うろつくもんじゃねぇよ」
「なに?」
少年は青年に向き直った。
思わず、長衣の胸元を握り合わせる。
青年は、かみ砕ききれない種をぷっと吐き出して、にやりとした。
「…私を、知っているのか?」
「別にィ」
「私の素性を知っての上で、助けたのだな」
「知らねえよってば」
青年は大きな手をひらひらさせて笑った。
「俺様くらいに育ちが悪いと、いろんなものを見てるもんなのさ。
 この国じゃ、ライオンを飼うのが珍しくないとは言え、本当に飼ってるヤツはそう多くない。
 ましてや、犬みたいに飼い慣らしてるお大尽は、五本の指で足りちまうさ。
 一等書記のアニ様、大神官のヘル・エク・ティ様、彫刻家の…」
長い指を折って、数え上げる。
雌ライオンの主人は、拳を握りしめた。
にじるようにサンダルを擦って、熱い砂の上に出る。
真っ白な陽光のもとに出ると、葉陰の青年は、薄っぺらな影に見えた。
影の口元がつり上がって、白い歯が光る。
青年は四人までライオンの飼い主を数え、最後の小指を折りたたんだ。
「そして、ヘセティ四世陛下のご息女、メル・レー・トゥ様…」

「ま、イチジクも食えないようなお姫様は、市場なんざァ、うろつくもんじゃねぇよ」

ライオンの主人は、黒曜石の瞳を大きく見開いた。
そのままきびすを返し、弓を向けられた兎のように走り出した。


*      *      *


…ヘセティ四世陛下のご息女、メル・レー・トゥ様。

青年のとぼけた声が、まだ耳に残っていた。
走っても、走っても、その声が追いかけてくるようだ。
セクメトが砂を蹴立てながら、脇を走っている。
ひょろ長い青年は追ってこない。
だが、声だけがいつまでも響いている。

メル・レー・トゥ様…。

「あはははは…!」
急におかしくなって、大声で笑った。
走って走って、都のはずれまで来てしまった。
街を取り囲む城壁が、目の前に立ちはだかっている。
誰もいない。
白い太陽が、天空を支配する昼下がり。
ひとけがあるのは、市場くらいのものだ。
たいていの人々は午睡を取る時間である。
…私だって、いつもなら、大きなうちわで侍女たちに扇がれて…ふん、ばかばかしい。
甘ったれた考えを吹き飛ばすように、男物のカツラを勢いよく脱ぎ捨てた。
汗ばんだ髪が頬と首にはりつく。
あまりの鬱陶しさに頭をがしゃがしゃとかき回した。
メル人の習慣では、本来、髪は剃り上げることになっている。
灼熱の国では、頭髪など汗疹のもとでしかない。
公の場所や、屋外で太陽にさらされる時だけ、カツラをかぶる。
そのカツラに贅を凝らし、工夫を凝らすのがメルの文化でもあった。
「暑い…」
手櫛で髪をかき回しながら、城壁に張り付くように落ちている短い影の中に入る。
ふわっ、と涼しい風がかすめた。
汗ばんだ全身に、新しい空気が通る。
気持ちいい。
足を高く蹴り上げると、サンダルが飛んでいった。
右も、左も。
裸足になって砂の上に立ち、四肢を思い切り大気の中に放った。
セクメトも、壁にもたれながら長々と伸びている。
百獣の王…いや女王だって、暑いのだ。
だらしない。
「なんてかっこうだ、セクメト。
 ウネベト女史に見つかったら、お仕置きされるぞ」
「うおん」
と、セクメトは面倒臭そうに吠えた。
猫族の情緒豊かな瞳が、お互い様じゃないか、と言っている。
風が舞い、雌ライオンの短いたてがみを逆立てた。
黄金の毛皮がさざ波となってきらめく。
「どうして…」
そのさざ波をなでながら、問いかけた。
「私だとわかってしまったのだろう」
耳の中に、青年の声がまた蘇った。
…メル・レー・トゥ様…
呼びかける声が、記憶の中で家庭教師の声と重なった。

甘ったれた考えを吹き飛ばすように、男物のカツラを勢いよく脱ぎ捨てた。

*      *      *


「メル・レー・トゥ様!
 お勉強のお時間でございますよ!」
家庭教師のウネベト女史が、太った体を揺らしながら、どたどたと歩き回る音がした。
いや、彼女にしてみれば、走っているつもりなのかもしれない。
「姫様!
 早く出ておいでなさい!」
ヤケになっての金切り声。
この叫びに、メル・レー・トゥ王女は肩をすくめた。
豪華な蓮池のしつらえられた王宮の中庭。
シュロの葉陰に置かれた石のベンチの側に。
王女はセクメトと小さくなって隠れていた。
池の向こう側に、女史の派手なカツラが見える。
上等の亜麻の長衣が日に透けて、巨大なお尻がゆさゆさ、ゆさゆさ。
王女は、おかしくて吹き出しそうになるのを危うく堪え、息を凝らす。
「そこに隠れていらっしゃるのはわかっておりますよ!」
女史は、あさっての方を向いて叫んだ。
いつものテだ。
こう言われると、ついつい見つかったと思って出て行ってしまう。
…甘いな、ウネベト。
そうそう同じ手に引っかかる私ではない。
王女は左手の人指し指を唇に当て、もう片方の人指し指をセクメトの口に当てた。
静かに、ね。
セクメトは「合点承知」と言うようにまばたきした。
獣ながら、この共謀を愉しんでいるような目だ。
「もう、どこへおいでになっちゃったんでしょう!
 お勉強が全然進まない!」
ウネベト女史は一層尖った黄色い声を上げると、どたどたと中庭から出ていった。
王女とセクメトは、そっとベンチの陰から顔を出し、女史の後ろ姿を見送った。
うまくいった。
これで今日のお勉強から逃げられた。
王女は背中を伸ばし、勢いよく立ち上がった。

そのとき。
ぽん、と肩に触れる手があった。
誰だ?
甘かったのは私の方か…
王女は観念して、かくれんぼうの鬼に見つかった時のように、ゆっくりと振り返った。

「叔父上」
鬼の正体がわかったら、急に力が抜けた。
「なにをしてるの?」
やわらかな声。
「ええと…」
王女は髪の毛に手を突っ込んで、かき回した。
大きな瞳を左右に動かす。
どこを見ればごまかせるのか、わからない。
「また勉強をさぼったのだね?」
叔父は、からかうような調子で言った。
王女は肩をすくめて、舌を出す。
行儀が悪いが、叔父は怒ったりしなかった。
ただ、優しく目を細めている。

「…姫様!」
そうこうしているうちに、また黄色い声が戻ってきた。
ウネベト女史が脂肪だらけの巨体を揺らしながら、中庭をつっきってくる。
「いっけない!」
王女はとっさに体を低くした。
セクメトと一緒に四つんばいになって、ベンチの陰に飛び込む。
叔父が、すっとウネベト女史の方へ足を踏み出した。

「まあまあま、デペイ様!」
叔父の姿を認めたウネベト女史が蓮池を回ってこちらへやって来た。
「お珍しい。
 今日は、お加減がよろしいんですの?」
王女はベンチ越しに、そっと様子を伺った。
ぽってりとしたウネベト女史の前に、叔父のやせた体がある。
立ち上がったカバの前にそよぐパピルスといった風情だ。
叔父上は、かばってくれるのだろうか?
よく聞き取れないが、低い声でウネベト女史に何か言っている。
女史のかん高い声だけが、王女の耳に届いた。
「…そうなんですの。
 メル・レー・トゥ様が、また、逃げてしまいました。
 全く、どうしてあんなじゃじゃ馬…いえ、元気のよい姫様になってしまわれたものやら。
 これでは、あたくしの教育が悪いと言われてしまいます。
 姫様は、いずれ、シェメウのジェア王に嫁ぐお方。
 メルの文化の高さを知らしめるためにも、最高の知性と礼節とお美しさとを…」
…よくしゃべることだ。
途切れもせず、よどみもせず、あれだけまくしたてられるのも、ひとつの才能だろう。
王女はあきれて、様子を見守った。
叔父の後ろ姿は、一本の棒のように動かない。
その棒の前で、肉のかたまりが身振り手振りを交えて大きく波打つ。
やおら、叔父は細い腕をあげて、ウネベトの前に手のひらをかざした。
もうたくさん、と言う仕草だ。
女史のおしゃべりが、一瞬止む。
それをきっかけに、叔父がくるりとこちらを振り返った。
「デペイ様! 聞いていらっしゃるんですの?」
ウネベト女史が叔父の背中に黄色く呼びかける。
叔父が
「まあ、メル・レー・トゥを見つけたら、知らせるよ。
 兄には、あなたが叱られないよう、とりなしてあげる」
と、言うのが聞こえた。
こっちを向いていたから、なんとか聞き取れた声だった。
ウネベト女史は、わざとらしく肩を上下させて、ため息の演技をした。
そして、叔父に背中を向けて、
「本当にもう、王女様はどちらへ行ってしまわれたのかしら!」
と、悔し紛れの独り言をわめきながら、もと来た方へ戻っていった。
どたどたという足音が小さくなっていく。


第三回・終わり




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