吐息 Shotr Stories
 [ 第五回 ]


その後は、お小言が待っていた。
ウネベト女史にキンキンまくしたてられ、いつもなら出てこないはずの父、ヘセティ四世まで登場して、たっぷりと叱られてしまった。
父や先生たちは言った。
「王女としての自覚を持ちなさい」
「あなたには、国を背負う責任がある」
「つらい勉強に耐えてこそ、立派な王女として、メルの名誉を守ることができる」
など、など。
どれも、耳にタコができるほど聞き続けている言葉だ。
はいはい…と、王女は心に耳栓をしながら、お説教に耐えた。
あんまりうるさいので、ちょっとスネて、夕食をとらずに部屋へ引きこもってみた。
別に、おなかなんか、すいてない。
セクメトにだけ、肉を食べさせてあげればいい。
どうせ、叱られることはわかっていたのだ。
それでも、叔父上の話を聞けて、楽しかったからいいんだ…

寝室には入ったが、眠る気にならず、露台(テラス)へ出た。
王宮の建物の裏側にある庭園が見渡せる。
小さな蓮池…どうも、庭師たちは蓮を植えるのが好きらしい…に、三日月が映っている。
ふいに、死んだ母親のことを思い出した。
五年前、九つの時。
…私は、死ぬという意味がわかっていなかった。
王女は水面の三日月と天の三日月を見比べた。
…あの時、悲しかったのか、そうでなかったのか、覚えていない。
王妃として公務を持つ母とは離されている時間の方が長かったし、棺を見ても、その中に母が入っているとは思えなかった。
棺の表面に描かれている肖像が、母に全然似ていなかったせいもある。
いずれまた、近いうちに『お母さまと過ごす時間』が来て、子供部屋に来てくれるのだと思っていた。
そうじゃないんだと、わかったのは。
母がミイラにされて、開口の儀式を終えた時だった。
山犬を象った冠を被った神官が、母の棺に聖水を注ぎかけ、死後の世界でも食事が出来るように魔法を施した時。
母が、別のものに変身してしまったと悟った。
いつも優しくほほえんでいたお母さまではなく、棺の表面に描かれた、平面的で無表情な、得体の知れない何かに。
その時になって、メル・レー・トゥは、初めて泣いた。
叔父上が、
「全てはあらかじめ決められているんだ。
 王族と言えども神ではない。
 私たちは、天の決めごとを覆すことなど出来ない」
と言った。
意味が、わからなかった。
ただ、普段、先生たちが言っていることと違うということだけは、わかった。
王家の一族はハモン王の子孫で、現人神と教えられている。
だから、叔父上の言っていることは、言語道断の不敬な発言なのだった。
でも、それならどうして、お母さまはいなくなっちゃうの?
王家の力で、神の力で、お母さまの魂を引き留めることができるはずじゃないの。

なんだか、混乱してきた。

王女は露台から降りて、蓮池の方へ歩いていった。
サンダルを脱いで裸足になり、敷き詰められた玉石を踏みしめる。
冷たい。
セクメトが音もなく、後ろからついてきた。
「そういえば、お前は、お母さまのかわりに来てくれたんだっけ」
王女はセクメトの頭に手をやった。
母がマスタバに収められた後、叔父からライオンの赤ん坊をもらったのだ。
初めて抱いたセクメトは、にゃあにゃあと猫みたいに鳴いていた。
「お前も、大きくなったね」
王女はセクメトを水面に連れて行き、その姿を映してみせた。
黄砂色の毛皮に月光が弾んで、あたかも黄金の像になったようだ。
短いたてがみが、さわさわと夜風にたなびいた。
水面が小さく波立って、セクメトの姿が小刻みに揺れる。
やがて、風が止み、蓮池は鏡のように透き通った。
水に映るセクメトの隣には…母がいた。

王女は、思わず後ろを振り向いた。
もちろん、誰もいるはずはない。
もう一度、水面をのぞき込む。
そこに映っているのは、母ではない。
メル・レー・トゥ自身だ。
ありし日の母そっくりに成長した、自分自身なのだった。

…全ては、あらかじめ決められているんだ。
叔父の言葉が耳に蘇った。
…君は、人質になりに行くんだ。
胸の中で、時間が交錯した。
九つの時の言葉と、さっきの言葉と。
…かわいそうに…

私は、かわいそうなのか…?

ふいに、セクメトが体を低くした。
「うぉん!」と、短い威嚇の声を上げる。
蓮池の水面が乱れた。
計算づくに植えられたパピルスが、ざわざわと騒ぐ。
水を打つ音。
羽ばたきの音。
鋭い、カスタネットを鳴らすような声。

一羽の黒朱鷺が、パピルスの茂みから飛び立った。
三日月の頼りない光の中に、大きな鳥の影が浮かぶ。
長い頸、鎌のような形のくちばし、優美な細い脚。
銀色の胴を縁取るように、首や尾や羽の先が黒くなっている。
葦原に隠れ、泥に潜む小魚や貝をついばむ、利口な水鳥。
それは、宙を泳ぐように、二・三度、蓮池の上を回った。
ハピの河から、ここまで遊びに来ていたのか。
日が沈んだのに、まだ巣に帰らないでいたのか。
朱鷺は王女の方を振り返り、細長い首を捻って、カスタネットの声を上げた。
自由に。
何ものにも囚われず。
朱鷺は大きく羽ばたくと、王宮を巡らす壁を飛び越えて、メルの塔の方角へ飛んでいった。
ハピの河とは、反対の方角だ。
叔父が話してくれたハモン王の冒険を思い出す。

…英雄王ハモンは、朱鷺に導かれ、冒険の旅に出た。

ふと、呼ばれているような気がして、王女は朱鷺を追った。
しかし、空を駆ける者と陸を這う者とでは、決定的な違いがある。
王女は、庭師たちが並べたベンチや彫刻や柱に阻まれた。
朱鷺の姿は夜空に消え、三角形のメルの影だけが、西の空に残っていた。

*      *      *


それが、きっかけだったのか?
叔父上と話したから、父上や先生に叱られたから、お母さまを思い出したから?
否。
だから、王宮を抜け出したというわけではない。
そんな後ろ向きな理由であってたまるか。
セクメトと並んで城壁にもたれながら、王女は自分の心を整理していた。
…多分、朱鷺のせいだ。
そういうことにしておきたかった。
自分を哀れんで、とか、叱られたから、とか、悲しいことを思い出したから、とか。
そんな理由で行動を起こしたとは思いたくなかった。
だが、強い動機があって、ここにいるわけでもない。
市場での出来事をかみしめるにつけ、王宮に帰りたくなってきた。
飛び出してから、半日も経っていないのに。
これでは、あんまりかっこが悪い。
ちょっとくらい、冒険してから帰らないと、後で自分が情けなくなる。
なにか、王宮に戻らないだけの強い理由を思いつかなければ。
…やっぱり、朱鷺のせいにしておくのがいい。
私は、ハモン王のような冒険を求めて、王宮を出たのだ。
王宮の壁をなんなく飛び越えた朱鷺に誘われて、籠の鳥のような王女の暮らしの外にあるなにかを、探しに来たのだ。
でも、『なにか』って、なに…?

王女は、もたれている壁の上の方を見た。
真っ白な陽光が日干しレンガの角で弾けていた。
乾期の空には雲ひとつない。
朱鷺どころか、蝿一匹飛んでいない。
セクメトが、ごろごろと、おねだりの声を出した。
「のどが渇いたの?」
それは、そうだ。
炎天下の中、二度も全力疾走してしまったのだから。
しかも、水を飲もうとしていたところで、騒ぎに巻き込まれたのだ。
「私も、のどが乾いた…」
さっき飲み損ねたレモン水が頭をよぎる。
だめだ。こんなところに座ったままではいられない。

王女は立ち上がった。
胸元で、ちゃらりと金属の鳴る音がする。
視線を落とすと、瑪瑙のはめ込まれた首飾りがあった。
「そうだ…これは」
王女は首飾りをつまみあげ、頭をかいた。
さっきの騒ぎに紛れて、首にかけられたままだったのか。
「…返してあげないと、かわいそうだよね?」
王女はセクメトを見た。
セクメトは返事をする代わりに、一回まばたきした。


「あらら、どこ行くのかね、あのお姫様は」
日干しレンガの建物の影で。
青年は大きな手を額の前にかざした。
男物のカツラをかぶりなおした王女が、ライオンと一緒に市場の方へ歩いて行く。
青年はあごの辺りに飛び出た短いヒゲを引き抜き、面倒くさそうにつぶやいた。
「御殿でおとなしくしてればいいものを…」
そして、そっと王女の後を追った。


第五回・終わり




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