吐息 Shotr Stories
 [ 第七回 ]


「ケガはないか?」
王女は座り込んでいる男の子に、優しく手を差し出した。
男の子は王女とライオンを見比べて、おびえている。
セクメトが鼻面を寄せて、男の子のにおいをかごうとした。
びくり、とする男の子。
王女はセクメトの首をつかみ、ちょっと後ろに引き戻した。
「大丈夫。これは、ライオンの挨拶だ。
 猫と同じだよ」
セクメトは王女に撫でられて、ごろごろとのどを鳴らした。
男の子は少し笑って、恥ずかしそうに下を向いた。
「…猫と同じ?」
「そう。少し大きいだけだ」
王女は膝をついて、セクメトの首から胸を撫でてみせた。
セクメトは「もっと撫でて」と催促するように、ひっくり返って腹をさらした。
こうなると、百獣の女王も子猫と変わらない。
男の子は、そっとセクメトの腹に手を伸ばし、一度引っ込めてから、また伸ばした。
小さな手が、白い腹毛に隠れる。
セクメトは猫みたいに「にゃあ」といって喜んだ。
男の子の顔に、無邪気な喜びが拡がる。
こうしていると、とても盗みをするような子供には見えない。
王女は弟を見るような気になって、男の子を眺めた。
そして、悲しいことに気付いた。
落ち着いてみると、男の子はとても哀れな姿をしていたのだ。
腕も脚もずいぶん細くて、胸には肋骨が浮きたっている。
髪の毛が伸び放題で、垢にまみれた顔は、目ばかりがやけに目立つ。
身に付けているものと言えば、細かく裂けて今にもバラバラになりそうな布だけ。
それでなんとか、骨張った腰の周りを申し訳程度に被っている。これでは、ロインクロスとは言えない。
メル・レー・トゥが今まで出会った者のうちで、最もみすぼらしく、最も惨めだと言って間違いない。
いくら世間知らずの王女でも、男の子の暮らしがどれほどのものか、理解できた。
それで…盗みをしたのか。
豊かだと言われるメルの国に。
私の知らない町の片隅に。
こんな子供がいたのか…。
王女は奥歯を噛みしめた。
「助けてくれて、ありがとう!」
王女が物思いにふけっていると、男の子は、はじけたように立ち上がった。
「帰らないと、父ちゃんに怒られるんだ」
名残惜しそうにセクメトをひと撫でし、元気に手を振る。
みすぼらしい姿だが、笑った顔が子供らしくて愛おしい。
王女とセクメトは同時に立ち上がった。
男の子は、あっと言う間に路地を飛び出し、夕闇の中に消えていった。


王女は、呆然として路地裏を出た。
日が沈んだ後の通りは、昼の喧噪が嘘のように静まり返っていた。
あれだけたくさんいた商人や、客たちは、どこへ行ってしまったのだろうか。
所狭しと並べられていた露店は片付けられ、日干しレンガの家々の窓から、ちらちらと灯りが漏れている。
時折、仕事を終えた商人たちが出てきては、王宮の方角へと向かっていった。
「今夜はブトの店へ行こう」
「アヒルの丸焼きで一杯やりたいね」
「俺は魚がいいな」
王女の目の前を、三人連れがにぎやかに通りすぎて行く。
どの男も新しいカツラを被り、こざっぱりとしたロインクロスを身に付けている。
もちろん、足にはきちんとサンダルを履いていた。
王女は、猫が動くものを眺めるように、男たちの流れを目で追った。
だんだん小さくなって行く後ろ姿の向こうで、空が煌々と燃えている。
繁華街があるのだ。
その方角だけが明るくて、日干しレンガの四角い家並みがオレンジ色に浮きたって見える。
更に向こうには、石造りの王宮。
頭に蓮の葉を象った彫刻を頂く太い列柱が、ありありと見て取れた。
土台を少し高く盛ってから作られたため、こちらから見ると、いくぶん仰向いて見える。
柱や建物全体の形が、わざと上部を小さく土台部を大きく設計されているので、堂々とした威圧感が余計に強調されていた。
まるで、ふんぞりかえって威張っているような…
無数の灯火に照らし出されたその姿が、不遜に感じられた。
王宮は…いや、王家は、弱い者を見下ろして、傲然としているのだ。
王女の胸に、先程の男の子の姿がよぎった。
細い腕と、脚と、肋骨と。
王女は王宮から顔を背けた。
…もっと、なにかしてあげればよかった。
手首と足首に付けた金の輪が、重い。
これを全部、あの子にあげればよかったのだろうか。
いや、そんなものは一時しのぎにしかならない。
それに、あの子の他にも、同じような子供たちがいるに違いない。
その全てに腕輪を配って歩くことなど、出来はしないのだ。
私は、王女なのに。
あの子を守ってあげることも出来ないのか。
父上なら、どうにかできるのだろうか…
メル・レー・トゥは、王宮の方に向き直った。
そうだ、父上に頼めばいい。
王ならば、国を動かすことが出来る。
宝物庫を開いて、貧しい人々を救うことが出来るはずだ。
今から戻ったら、私は叱られるだろう。
しかし、窮乏する人を見て、それを助けたいと思ったと訴えれば、きっと聞き入れてもらえる。
いつもウネベト女史が言っている『王女の責任』を果たせるのではないだろうか。
「戻ろう、セクメト」
王女はライオンの頭を撫でた。
セクメトはうなずくようにまばたきして、尻尾を振った。
軽やかに、しかし決然と、王女は王宮へ足を向けた。


「茶番だな」 一部始終を見ていた青年は、ボサボサの頭に手を突っ込んで、苦笑いした。
気前よく、耳飾りなんぞくれてやっちまいやがって。
宝石商の用心棒ごときが、そんなに日銭をもらえるかい。
意味が分かってんのかね?
まあ、現実の厳しさを知るには、充分だったろうが…
青年は、身を隠していた路地から、ひょろりと這い出した。
王宮の方角へ向かって歩いて行く王女とライオンの後ろ姿を確認する。
「やっと戻る気になったみたいだな」
自分に話しかけるように、つぶやく。
「俺様もねぐらへ帰るか……いや」
青年はがっちりしたあごの辺りを撫でながら、首をひねった。
「最後まで見届けなけりゃ、眠れねぇな」

*      *      *

王女は、繁華街をまっすぐ突っ切って、王宮へ向かった。
通りには、王女の知らないものが満ちていた。
道の両側には机と椅子がずらりと並べられ、料理を載せた大皿を掲げた給仕たちが、あちこち歩き回っている。
ビールやぶどう酒を満たした底の尖った壷が、柱のように地面に突き立てられていた。
日干しレンガで作られた四角い建物からは、煮炊きの煙と楽しそうな笑い声が吹き出している。
騒々しさと言ったら、市場の喧噪が丸ごと引っ越してきたようだ。
だが、昼間見た情景とは、全く違う。
太陽の代わりに灯された、小さな油皿の炎では、人も物も違って見える。
ちろちろと、無数の灯りがテーブルや通りの端で揺れ動き、物の影が大きくなったり小さくなったりするのだ。
太陽の描き出す形は、彫刻家が鑿で切り出したような、鋭敏な角を持っていた。
しかし、ここに満ちる光は違う。
頼りなくて、不確実で、中途半端に物の形を彩る。 なんとも、うそつきだ。
道ゆく人々も、うつろに見える。
酔っ払っている者が多いせいだろうか。
肩を組み、互いにもたれながら、ふらふらと歩く男たち。
それを店に引っ張り込もうとする、化粧の厚い女たち。
まな板に載るのを嫌がって逃げ出したガチョウを、追いかける料理人。
ぶどう酒の薄め方がひどいと言って、店主を怒鳴る労働者風の男。
店員にも客にも小突き回される、給仕の少年。
リュートを鳴らしながらテーブルを回って、食べ物をもらう盲目の楽士。
なにもかもが、無秩序に入り乱れている。
王女は、歪んだ空気にあたって、くらくらした。
セクメトだけが、まっすぐと進んで行く。
百獣の女王の確固たる足どりに従って、王女は黙々と歩いた。

「…兄ちゃん」
ざわめきの洪水の中で、誰かを呼ぶ声がした。
王女は、セクメトの後ろ姿ばかりを見つめていた。
ライオンの優美な歩みに合わせて、首のビーズ飾りがちゃらちゃらと音を立てている。
その音楽のような響きに気を取られていて、人の声など聞き流していた。
「兄ちゃんてば」
ふいに、袖を後ろに引っ張られる。
「兄ちゃん」
三度声をかけられて、自分が呼ばれているのだとやっと気付いた。
そうだ、私は男装していたのだっけ。
振り向くと、見覚えのある顔がそこにあった。
あの、やせた男の子が袖をつかんでいる。
「どうしたの?」
王女は驚いて男の子を見た。
セクメトも、ぴたりと立ち止まる。
男の子は、大きな目をぎょろつかせて、上目使いに王女を見上げていた。
ゆっくりと片手をあげ、通りの一辺を指さす。
「私に用事?」
王女は、できる限り、優しい声を出してみた。
好機かもしれない。
王宮に戻る前に、せめて、腕輪のひとつでもあげようか。
王女が腕輪の止め金に指をかけた時、男の子はパッと駆け出した。
「あ…」
王女は声を出しそびれて、うろたえた。
男の子は少し離れたところで立ち止まり、こちらを振り返る。
酔っ払いの行き交う波間。
ビールの壷の隙間あたりで、男の子の姿が見え隠れする。
「待ちなさい」
王女は男の子を追いかける。
セクメトが、後に続く。
男の子は王女がついてくるのを認めると、すっと脇道に入った。
人の波が、王女の視界を遮る。
見失ってはいけない…
今度こそ、少しはあの子のためになることをしてあげたい。
王女は走った。

ビールの壷を擦り抜けて、脇道に入ると、急に人の波が途絶えた。
騒がしさがみんな後ろに追いやられたような錯覚に陥る。
灯りも、においも、大騒ぎも、表通りを外れてしまえば消えてしまうのか。
幻の世界から、急に現実的な夜の闇に踏み込んだ心地がする。
黒い路地の奥で、男の子の細い影が待っている。
「そこにいて」
王女は声をかけた。
家々の壁に反響して、自分の声が何重にも聞こえた。
後ろから、セクメトの気配が追ってくる。
王女は今度こそ、右手に付けた腕輪を外した。
男の子に、そっと近寄る。
「怖がらないでいい。
 少しだけ、話をしよう…」
王女は、男の子の目線に合わせて、身をかがめた。
すると。

背後で大きな布のようなものが落ちる音がした。
続いて、セクメトの悲鳴。
王女は反射的に振り向いた。
「セクメト!」
雌ライオンを覆い尽くすように、大きな網がかぶせられている。
セクメトは混乱の叫びを上げながら、もがいていた。
網から抜け出ることができずに、四肢をばたつかせている。
鋭い爪も、細かな網目に絡まって役に立たない。
王女は、帯に挟んだ短刀を引き抜いた。
いや、引き抜こうとした。
「…う!」
王女は短刀の柄に手をかけたまま、硬直した。
目の前に網が降ってくる。
次の瞬間、全身をからめ取られて仰向けに引き倒された。
背中に衝撃が走る。
「あ…」
悲鳴を上げようとしたところで、口の中に布切れを押し込まれた。
…誰だ!?
網でくるまれたまま、体を持ち上げられる。
何本もの腕に押さえ込まれて、身動きがとれない。
…セクメト!
王女は必死に首を回して、セクメトの方を見やった。
雌ライオンは網から逃れられないまま、じたばたしている。
…離せ!
王女は声にならない叫びを上げた。
しかし、獣のような唸り声しか出せない。
…助けて!
もがこうにも、体中がんじがらめにされていて、どうにもできない。
見開いた目の端で、暴れるセクメトが遠ざかって行く。
王女は、どこかへ運び去られようとしていた。
体を抱えている誰かが、日干しレンガの屋根に上る。
がくん、という衝撃で、胃が持ち上がったようになり、そのまま気が遠くなった。

第七回・終わり




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