吐息 Shotr Stories
 [ 第十六回 ]


…セケム…セクメト?
新しく現れた空間には、セケムとセクメトがいた。
ひょろりと背の高い青年と雌ライオンが、じゃれあっている。
どちらも後ろ姿だが、確かにセケムとセクメトだ。
青年は、ボサボサ頭で、肩幅がやたらと広く、手も脚も筋張っている。
こんな特徴的な体型は、セケム以外に考えられない。
ライオンはライオンで、色石のビーズをつなぎ合わせた首飾りをつけている。
あの飾りは、叔父上からもらったもの…

王女は反射的に扉を閉めた。
板が割れてしまいそうなくらい、大きな音を立てる。
扉を背にして、今度はこちら側の世界を見た。
ひょろ長い青年とビーズ飾りをつけた雌ライオンが、きょとんとしてこちらを見ている。
もちろん、セケムとセクメトに違いない。

「お姫様ァ…?」
セケムは片手を腰に当てた。
もう片方の手に持った油皿を、こちらに突き出す。
太い眉が、一本につながるのが見えた。
「開けちゃったの?」
声が少し尖っている。
王女は、こくんとうなずいた。
「もォー、どーしてそう不用心なのかなあ。
 またどんな仕掛けがあるのかわかんないのにさァ…」
セケムは、ぶつぶつ言いながら、頭をかき回した。
灯りを近づけて、扉を確かめようとする。
王女は、激しく首を横に振った。
「なんだよ?」
セケムが怪訝な顔をする。
「あ、開けない方がいい。この向こうは、ヘンだ」
王女は、自分の声がうわずっているのを感じた。
「どうヘンなんだよ?」
「どうって…」
そなたたちがいた…と、言おうとしたが、言葉が出てこなかった。
なんと説明したらいいのかわからない。
理屈に合っていないのだ。
「見せてみな」
セケムは油皿をかざして、扉を調べ始めた。
背中を丸めてあごを突き出すいつもの仕草で、蝶番や取っ手をくまなく確かめる。
王女は、いつの間にか扉からずれて、セケムの背中越しに灯りの中を見つめていた。
「ずいぶん新しい木だと思わぬか?」
「うん。けど、ちっとも不思議じゃないね」
セケムはあっさり言った。
「俺たちが来るまで、メルの入口はぴったり閉められてたんだ。
 作られた時のまんま、空気まで閉じ込められてたとしたら、木が腐らないのも道理だぜ」
「そういうものか…」
「砂に埋もれた死体は腐らないだろ?」
「嫌な喩えをするな!」
王女は怒った。
セケムは作業の手を止め、わざわざ振り返って、
「姫様でも怖いもんがあるのか」
と、にやにやした。
憎らしい男だ。
王女は目をそらした。
「ま、開けてみればわかるさ。何があるのか…」
セケムは扉を開いた。

「あれ?」
王女は首をかしげた。
扉の向こうに、青年とライオンはいなかった。
セケムはたったひとりで、セクメトはたった一頭だ。
無論、最初からこちら側にいるだけだ。
「別に、変わったとこはないみたいだぜ?」
セケムは扉を大きく開け放った。
またしても、がらんどうの四角い部屋が拡がっている。
「お宝もないみたいだけどね」
セケムは、ゆっくりと新しい部屋に入っていった。
セクメトも体を低くして、辺りのにおいをかぎ回る。
…さっき見たのは幻だったのか?
王女は立ちすくんだ。
しばらくセケムとセクメトの後ろ姿を見つめていたが、急に怖くなって追いかけた。
扉の向こうへと足を踏み出す。

カスタネットが鳴った。

唐突な音に耳を打たれ、目の前が真っ白になる。
立っていられないほどの眩暈が襲った。
空気が捻じれる。
次の瞬間、王女は、足を踏み入れたはずの場所とは違う部屋に座り込んでいた。

「セケム! セクメト!」
王女は叫んだ。
のっぽの青年も、おちゃめなライオンも、どこかへ消えていた。
たったひとりで四角い空間の中に取り残されている。
灯りを持ったセケムがいないにもかかわらず、新しい部屋の中は薄光に満ちていた。
床に目線を落とすと、巨大な紫水晶がいくつもはめ込まれている。
六角形の結晶は表面を平らに均されて、クッションのように並べられていた。
それらがほんのり光って、辺りを照らしているのだ。
王女は、信じられない思いで四方を見回した。
壁も天井も、びっしり絵で埋まっている。
ハピの収穫を描いたものだ。
豊かな水をたたえた河のほとりに、黄金の麦穂が波となってさざめいている。
空と水の色が、今絵の具を塗ったばかりのように青い。
片側の髪を編み下げにした裸の子供たちが、踊りながら麦を刈り取っている。
ひとりとして同じ仕草をしていない群像は、躍動感と生命力に満ちていた。
楽しげな歌が聞こえてきそうに思える。
いや、本当に聞こえてきた…

王女は耳を疑った。
大きく息を吸い込み、呼吸音を止めて、歌が幻かそうでないかを確かめようとする。
そのうち、麦の穂がそよぐ音まで混ざり出した。
ハピの河が流れる。
麦を刈り取る乾いた響きが、あちらからもこちらからも聞こえてきた。
王女は、胸に手を当て、いきおいよく呼気を吐き出した。
信じられない。
壁画が音を立てている。
子供たちの歌が、波になってうねった。

…メル・レー・トゥ。

耳に聞こえる音ではない声がした。
王宮の蓮池で、メルの塔の入口で、王女を呼んだあの声だ。
メル・レー・トゥは、声の方を向いた。
黒朱鷺の絵がある。
長い首、純白の翼、漆黒の風切り羽。
何度も現れては消えた、あの水鳥。
絵の中の朱鷺は、ゆっくりと翼を動かした。
そして、平らな世界から、こちらの世界へ抜け出てきた。

「よくぞ、この道を来た」
朱鷺は王女の正面に舞い降り、大きな翼をたたんだ。
もう、なにがなんだかわからない。
王女は叫んだ。
「ここはどこ? セケムは、セクメトは?」
「あれらは、この道にない」
朱鷺はくちばしも開かずに言った。
「道?」
「『始まり』を見たろう」
最初に見つけた壁画のことを言っているのか。
分かれ道に立つ青年像の頭上には、確かに『始まり』の神聖文字があった。
「道は分かれる。この道を選べる者は少ない」
意味がわからない。
道とは何のことだ?
「『始まり』の扉は、各々の道へとつながっている。
 同じ扉から出ても、同じ道を行くとは限らない。
 道は、人の数だけ…心の数だけある」
メル・レー・トゥは、ウネベト女史とのお勉強の時間を思い出した。
今、朱鷺が言っているようなことは、昔の偉い人の言葉として、よく覚えるようにと、さんざん書き取りさせられた。
しかしそれは、あくまでも比喩であり、本当に同じ扉から出て、別の道…別の空間へ移動してしまうようなことはありえない。
「ただ見たままを知解せよ。
 メルの中では、時間も空間も現象も、本質のままに変化する。
 そなたが当たり前と思っていることは、幻だ」
朱鷺は、メル・レー・トゥが疑問を口に出す前に、答えた。
そして、
「そなたは、何故、この道を来た?」
と、尋ねた。
王女は黙って朱鷺を見つめた。
答え方がわからない。
扉から一歩足を踏み出したら、ここにいたのだ。
私の意志ではない。
「そなたは、何故、メルへ来た?」
朱鷺は質問を変えた。
この問いになら、答えられる。
「農民たちを救いたい。
 ハモン王の財宝をもらいに来た」
拳を握りしめて、訴える。
朱鷺は笑った。
「財宝など、ない」
「なぜ? ここは、ハモンの墓ではないのか?」
「ハモンなどという王はおらぬ」
王女はふたつの拳を唇に当てた。
「ハモンという言葉を、よく見つめてみるがよい。
 『隠れたもの』という意味ではないか。
 あれは、心の集まり。
 尊い仕事を成し遂げながら、名もないままだった者たちの手柄を引き受けた、たったひとつの名前なのだ。
 ある者は町を作り、ある者は河を治め、ある者は病を癒す薬を作り…
 ハモンは、そういう者たちの心をひとつにまとめた言葉だ」
「では、メルは何のためにあるの?」
「ハモンと、その財宝を守るために」
おかしなことを言う。
今、ハモンも財宝もないと言ったではないか。
「ハモンは、存在しないが存在する。財宝も、存在しないが存在する。
 存在させるか否かは、そなたの選ぶ道次第」
私次第…?
朱鷺は羽ばたき、少し後ろに飛びすさった。
「石の上に立つがよい」
王女は、うなずいた。
理由はわからないが、言うとおりにしようと思った。
一番近くにある水晶に乗ってみる。
紫色の薄明かりが、鼓動するように揺らめいた。
この石は生きているのか?
そう思ったとき、紫の光が激しく立ちのぼった。
床から雷が走るように、光の柱がそそり立つ。
紫の光はみるみる明るさを増し、真っ白になった。
メル・レー・トゥは光の柱に閉じこめられて、何も見えない。
激しい衝撃が、かかとから入って脊椎を駆け昇り、一本一本の髪の先から突き抜けた。
白い輝きは、やがて柔らかに青みを帯び、ハピの水の色になった。
メル・レー・トゥは、体中に暖かな力がみなぎっているのを感じた。
足下の石は、紫色から涼やかな青に変わっていた。
朱鷺は、満足そうに長い首を揺らした。
「よい色だ。それは、そなたの心の色」
心の色?
「強い心を持つものは、石の力を自分のものにすることができる。
 しかし、強さに善悪は関係ない。
 力は、善にも悪にも使えるものだ。
 …もし、石が赤く変わったら、そなたを殺してしまうところだった」
朱鷺は、恐ろしいことをあっさりと言った。
「私を試したのか?」
「試さねばならなかった。
 さもなくば、ハモンの財宝を与えることができない」
また、謎めいたことを言う。
朱鷺は、羽を広げ、部屋の中央へ舞い上がった。
「そなたに与えよう。
 飢えに苦しむ民たちを救う宝を」
朱鷺が宣言すると、絵の中の子供たちが集まってきた。
子供たちは手をつないで、朱鷺の下で輪を作った。
歌いながら、踊りながら、くるくる回る。
輪が次第に小さくなった。
円運動の中心が緑色に光る。
閃光が、四方八方に飛び散った。
メル・レー・トゥはまぶしさに目を閉じる。
子供たちの歌が消えた。


第十六回・終わり


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