吐息 Shotr Stories
 [ 第十七回 ]


「メル・レー・トゥ」
朱鷺が呼んだ。
王女は、そっと目を開けた。
朱鷺は膝の近くに立っていた。
三日月形のくちばしの先に、緑色の板をくわえている。
こちらへ差し出しているようだ。
メル・レー・トゥは、促されるままにそれを受け取った。
手のひらに乗るくらいの長方形だ。
全体がたったひとつの緑柱石(エメラルド)で出来ている。
希少な宝石であり、これだけ大きい結晶が存在すること自体、珍しい。
しかも、全く傷がなく、半透明に透き通った完璧な石だ。
今まで緑柱石の細工物を見たことはあったが、これだけの大きさと透明度を誇るものはなかった。
表面に、リュートの図柄が彫ってある。
「『息吹(トゥ)』と言う」
朱鷺は説明した。
「全てのものに生命の力を吹き込む魔法だ。
 萎えた麦を生き返らせることができる」
王女は朱鷺を見つめた。
「萎えた麦を…では、農民たちを助けることができるのか」
明るい声をあげる。
「緑柱石を持って、心に望みを描けばよい」
朱鷺は王女の目の高さまで舞い上がった。
気流もないのに、宙に停止する。
細かな羽毛に縁取られた黒い瞳が、メル・レー・トゥを見据えた。
「メルの国は、これから大きな災厄に見舞われる。
 今回の凶作は、その始まりにすぎない。
 だが、災厄は避けることができる」
朱鷺は翼を広げた。
「全ては…そなた次第」
言い残すと、そのままの形で、吸い込まれるように後ろの壁へと退いた。
子供たちがいなくなった壁に張り付く。
こちらの世界から、絵の世界へ。
朱鷺は、壁画の中に戻った。
そして、羽ばたいた水鳥の絵の下には、真新しい木の扉があった。

      *      *      *

「…姫様、どこに行っちゃったんだろうな?」
セケムは壁画の部屋に座り込んで、セクメトに尋ねた。
床に置いた油皿がじりじり音を立てている。
それ以外に、何の音もない。
黄色い光が、分かれ道に立つ青年の絵を照らしていた。
セクメトが泣きそうな顔で小さくうなった。
前足をからめて、セケムの腰にしがみついてくる。
心配でたまらない気持ちが、暖かな毛皮から伝わってきた。
「灯りもなしに、そう遠くへ行けるはずはないんだが…」
セケムは悲観的な考えに襲われて頭を抱えた。
王女から目を離したのは、ほんのちょっとの間だったのだ。
今いる部屋から、次の部屋に移った時。
「セケム、セクメト!」という叫び声が聞こえたと思った。
振り向くと、もう王女はいなかった。
「跳ねっ返りの無鉄砲め!
 独りでどこへ行っちまった!」
わざと乱暴な言葉で、毒づいてみる。
しかし、不安は増すばかりだった。
もし、通路を戻っていったのだとしたら?
装備はみんな、俺が持っていた。
手探りのまんま、あの通路を歩いたら、たちまち落とし穴にかかるだろう。
あの、刃の林に落ちたら?
セケムは身震いした。
王女の華奢な体が、落下して行く様を思い描いてしまった…

その時。
セクメトが「うぉん!」と短くほえた。
からみついていた前足が、急にほどかれる。
ライオンは、獲物を追うときの勢いで床を蹴った。
セケムはとっさに油皿を拾い上げ、光をそちらに向けた。
さっき、くまなく調べた扉の側に。
男装した少女が立っていた。
「セケム…」
少女が呼ぶ。
雌ライオンが狂喜乱舞して、少女の周りをぐるぐる回った。
「姫様…」
セケムは飛び上がった。
どこに行ってたんだ、心配したんだぞ、なんで勝手に歩き回った!
言いたいことが、嵐になって胸の中にわき起こった。
しかし、セケムの口から出たのは、「…よかったァ…」だけだった。


王女は、大喜びのセクメトに押し倒されて、床に転がった。
ざらざらの舌に、頭といわず顔と言わずなめまわされる。
「これ、おやめ、セクメト…」
と、ライオンを押さえようとする。
どうにか起きあがると、サンダルをずるぺた引きずりながら、セケムが近づいてきた。
油皿の薄黄色い灯りの中に、細長い顔がある。
頭はボサボサ、がっちりした顎には、無精ひげが伸びかかっていた。
「どこ行ってたんだよォ…」
情けない声を出している。
泣き出す直前の子供みたいに、鼻の頭にしわを寄せていた。
王女は、なんと説明していいかわからずに戸惑った。
ただ、黙って朱鷺からもらった緑柱石の板を見せた。
「なに、これ?」
セケムは、大きな口を横に曲げた。
「緑柱石だ」
「ウソだろ?」
セケムは板をつかみ上げた。
灯りにかざして、上から下から眺め回す。
細い目が限界いっぱいに開いた。
「こんなデカい緑柱石があるかい?」
「緑柱石以外に、こんな色のものはない」
「どこで拾ってきたんだよ?」
「朱鷺からもらった」
「また朱鷺?」
「信じてもらえないかもしれないが。
 メルの中では、不思議なことが起こるようなのだ」
王女は、離ればなれになっていた間に起きた出来事を、説明した。
朱鷺が語った謎めいた言葉も、出来る限り正確に話してみる。

王女がひと通りいきさつを語ったところで、セケムは腕を組んだ。
「信じられねぇ…
 けど、事実だってんなら、納得するしかないってことか?」
「私だって、わけがわからないのだ」
「試してみるのかい、魔法とやらを」
そう聞かれて、王女は息吹(トゥ)の緑柱石を握りしめた。
…全ては、そなた次第…
朱鷺の言葉が胸によみがえる。
メル・レー・トゥはセケムを見た。
セケムは尖った犬歯をむき出して笑った。
「こうなりゃ、とことんつき合うぜ」

      *      *      *

王女とセケム、セクメトは、メルの塔を出てハピのほとりへ向かった。
都を突っ切る途中で、王女にはあまり時間が残されていないことがわかった。
父王に派遣された兵士たちが大勢ウロついている。
捜索隊の数は、前回よりもずっと増えているようだ。
王女とセクメトは再びビールの壺に入り、セケムに引っ張られて都を抜けた。

昼過ぎ頃、一行はハピの河についた。
王女が閉じこめられた穀物庫から程近い農地の前で、セケムは橇を止めた。
メル・レー・トゥはビール壺の中から這い出して、あたりの様子に愕然とした。
農地はすっかりひび割れている。
ハピの河は流れているものの、大地に水は行き渡っていない。
黒いはずの土が乾いて白っぽくなっていた。
パリパリの地表から、黄色や茶色に干からびた麦がはみ出ている。
穂など、実る様子もない。
そんな荒れ果てた光景が、視界の全てを占めていた。

王女は、息吹(トゥ)の緑柱石を手にして、荒れた土地に立った。
セクメトが足に寄り添う。
セケムは橇にもたれてこちらを見ている。
「さあ、やってみなよ」
とぼけた調子で右手を挙げた。
飄々としているが、ずっと眠らずに動き回った青年の顔には、疲れが浮かんでいる。
「…ありがとう、セケム」
王女は初めて礼を言った。
心から、感謝の気持ちがわき起こってきた。
セケムのしてくれたことに、必然性はないのだ。
王女を手伝わなければならない義務があったわけではない。
召使いでも部下でもない。
それなのに、ここまで連れてきてくれた。
メルの塔に入り、朱鷺からハモンの財宝をもらって、ハピのほとりに立つまで。
セケムがいなければ、出来なかった。
「へへへ、いいってことよ」
セケムは鼻の下をこすった。
照れたのを隠すように笑って、
「早く試してみなよ」
と、促した。

王女は朱鷺の言葉を思い出した。
…緑柱石を持って、心に望みを描けばよい。
記憶の中で、朱鷺が羽ばたいている。
王女は息吹(トゥ)の緑柱石を胸に当て、目を閉じた。
メルの塔の中で見た、壁画が浮かぶ。
豊かなハピの河。
金色に輝く麦の穂波。
収穫を楽しむ子供たち。
…息吹(トゥ)の緑柱石よ。死にかけた大地に、生命を。
王女は祈った。
心に、生き返った大地を思い描いた。
重く実った麦の穂を、強く念じた。

ところが。
いつまでたっても何も起こらなかった。
王女は目を開けて、緑柱石を見つめた。
リュートの彫り込まれた表面に、陽光が反射してきらきらと輝いている。
だが、それだけで、なんの変化もない。
目の前の大地は、ひび割れて干からびたままだ。
王女は焦った。
また目を閉じて、祈った。
朱鷺よ、麦に命を!

「わははははは…!」
セケムが急に笑い出した。
王女は肩をいからせて、青年の方を振り返った。
「何がおかしい」
「はははは、こういうもんだよ、これが現実ってもんだよ、わははは…」
徹夜で頭がおかしくなっているのか、めちゃくちゃに笑い転げる。
目尻には涙まで浮かんでいた。
王女は緑柱石の板を握りしめて、セケムをにらみつけた。
青年の笑いは止まらない。
「姫様、あんた、夢を見たんだ。
 メルの中で…そうだ、転んで頭を打ったんだよ。
 で、朱鷺だの子供の壁画だの、いろんな幻を見た」
「幻ではない!
 ちゃんと、こうして、緑柱石がある!」
「たまたま倒れた近くに落ちてたのさ!
 ハモン王のお宝が残ってたんだよ。
 …そうだ、メルの財宝だって、すでに誰かが盗んだ後だったのかもしれない。
 だから、空っぽだったんだなあ。
 姫様は、運良く、その残りを拾うことができたんだよ」
「セケム!」
王女は強い声で青年の饒舌をブッた切った。
拳もこめかみも、震えてしかたなかった。
奥歯をかみしめても、瞼の中が燃えるように熱い。
「…わ、悪かった、悪かったよ、姫様」
セケムがあわてて両手を振った。
ひび割れた土を踏みしめながら、近寄ってくる。
「ウソ…冗談さ。
 姫様はよくやったよ。
 ちゃんと、お宝を持って帰ってこれたんだ。
 俺は、わかってるよ。わかってて、からかったんだ。
 そうだ、その緑柱石を売ればいい。
 高く買い取ってくれる商人を捜して、」
「全然、わかってないっ!」
メル・レー・トゥは怒鳴った。
情けなくて…今度こそ…目が…

「!」
突然、人々の泣き叫ぶ声が、背後でわき上がった。
罵声と鞭の音、入り乱れる馬の蹄音。
振り返った王女とセケムは、巻きあがる砂煙の中に、糸巻きと赤い鷹の旗印を見た。


第十七回・終わり


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