掟 Shotr Stories
 [ 第二回 ]


新緑の生い茂るケヤキの枝に。
冷たい目をした女が座っていた。
長い黒髪を指でもてあそぶ仕草には、まだあどけない少女の面影すら残っている。
だが、そのまなざしはあくまで冷たい。
玻璃(がらす)のように透き通って、無表情だ。
心を動かすことを知らない人形のような、無垢の横顔。
玻璃の瞳は、なにも知らないということがどれだけ幸福でどれだけ不幸なのか、まだ知らない。

「錫(すず)」
低い声に、女は少し首を動かした。
それが彼女への呼びかけだからだ。
額に錫箔の輪をはめているから、錫。
もちろん、きちんとした名前ではない。
そもそも彼女には名前などないのだ。
親方様が呼ぶのに不自由しなければそれでいい。
「錫」
もう一度、低い声が囁く。
肩先で、小さな妖精が舞っていた。
手のひらに乗る大きさの愛くるしい少女。
背中に透明な虫の羽を生やし、それをせわしなく動かして、空中に停止している。
西方渡来の精霊の一種で、かの国の言葉ではペリットという。
「獲物の顔を覚えたか?」
幼顔の精霊は、姿に似合わぬ太い声でしゃべった。
親方様の声である。
このペリットは、命令を届ける使いなのだった。
「覚えました」
錫は、親方様本人の側にいる時と同じく、従順に答えた。
彼女の世界では、全てが親方様に始まり、親方様に終わる。
その他の人間のことはどうでもよかった。
錫は、『闇』に属する暗殺者。
親方様から、暗殺の技と術を徹底的にたたき込まれた。
以外のことは、何も与えらていない。
姿形こそ、優しげな女の装いをしているが、それは敵を油断させるため。
いざとなれば裾のさばきも鮮やかに、必殺の蹴りを炸裂させる。
身体中の筋肉と、そしてなによりもその精神が、戦いのために鍛え上げられていた。

「獲物の顔を覚えたか?」
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錫は、足下でうごめく『獲物』の姿を見つめた。
獲物は、頭の後ろから長い三つ編みをぶら下げた大男。
両肌脱ぎの上半身に玉の汗を光らせて、土嚢を運んでいる。
その側では、幼い子供が跳ね回っていた。
子供は、はしゃいだ声でしきりと大男に話しかける。
子犬がまといつくようだ。
キャンキャン、キャンキャン。
錫の耳には、そういう風に聞こえる。
うるさくて、不快だ。
大男は、ほとんど口をきかなかったが、ずっと優しく目を細めている。
その細い目も、どこか気に入らなくて、錫は眉を寄せた。
「殺せ」
小さな精霊が親方様の声で言った。
「方法は、おまえに任せる。
 裏切り者を殺せ」

*      *      *

「じゃあねえ、和尚。また明日ねえ」
童子は、ちぎれるくらいに手を振って、和尚を見送った。
西の空が赤く燃え、宵の明星が姿を現す頃。
青銅和尚は土嚢の代わりに童子を担いで、家まで届けた。
童子の父母が笑顔で和尚を迎え入れ、粗末な食事となる。
和尚は合掌して、ささやかな招きを受け、出されたものを気持ちいいくらいにぺろりと平らげた。
童子が
「泊まっておくれ、泊まっておくれ」
と引き留めたが、和尚は微笑んで合掌し、八角亭に戻った。

月が中天にかかり、ミミズクの声がほうほうとこだます頃。
青銅和尚は、昼の労働で疲れた体を横たえようと、粗末な住みかの前に立った。
扉の代わりにぶらさげられたムシロをめくる。
中に入れば、寝藁が待っているのだ。
獣の巣のように盛り上げられた藁の上に、倒れこんで眠りに就こう。
一番鶏が鳴くまで、目を開けないぞ…
「!」
半開きの目で藁に近づいた和尚は、異様な気配を感じた。
海のにおいがする。
重たい鉄が、がちゃりと鳴る音。
藁を散らして、黒い塊が忽然と現れた。
矛のきらめき。
それは、和尚の胸板めがけて、疾風のように繰り出された。
「哈!」
和尚は紙一枚の隙間で攻撃をかわし、身構えた。
破れた屋根の隙間から月光が差し、目の前の敵を映し出す。
西方風の甲冑に身を包んだ異国の騎士。
手に長い三叉矛をたずさえ、異様に輝く目で和尚を見据えている。
騎士の足元には、大海亀。
さっき感じた海のにおいの正体はこれだった。
あまりにも異様な、ひとりと一頭である。
和尚は構えたまま、片方の眉をわずかに動かした。
半眼の目を、カッと見開く。
拳を中段に構え、周り中に気を張り巡らせた。
殺気!
異国の騎士が矛を振りかざし、和尚を突く。
海亀は、亀とは思えぬすさまじい早さで、突進してくる。
正面と背後から、挟み撃ち。
和尚は猿のように跳躍し、まずは亀の突進をかわした。
ドンと地響きをあげて、亀が柱に激突する。
狭くて古い八角亭が、壊れそうな音を立てて軋んだ。
続いて、和尚は素早く騎士の後ろに回り込む。
流れるような動きに従って、長い弁髪が蛇のようにのたうつ。
「吽!」
和尚は重たい気合いをこめた。
全身に雷光のような気が走る。
「哈ッ!」
鼓を打つような、叫びとも気合いともつかない声。
足を広げて腰を低く落とす四股立ちの姿勢から、鋭い中段突きで騎士の背中を打つ。
鎧の継ぎ目から急所に当てる、正確な攻撃。
異国の騎士は、ぐらりとよろめいた。
しかし、すぐに体勢を立て直して、正面に向き直る。
同時に、柱にぶつかった亀も起きあがって、主人の協力に備えた。
再び、挟み撃ちの突進。
和尚は四股立ちのまま待ちかまえる。
足元を狙う亀、心臓を狙う騎士の矛。
和尚は、ほとんど動かずに矛の柄を脇で挟み込んだ。
雷のように走る気。
熟練の体術で、体の軸を全く揺らさないまま、前後の敵を撃つ。
軽く飛んで海亀の頭をかかとで砕き、腕を絡めて騎士の矛をもぎ取る。
甲冑をがちゃがちゃと鳴らして、騎士は揺らめいた。
「哈! 哈! 哈!」
和尚の正確な突きが、倒れかけた騎士の体に炸裂する。
騎士は空中に浮かんだような状態で和尚の拳に弄ばれ、最後の突きで柱に激突した。
ゴン。
鈍い音がして、梁が外れる。
オンボロの八角亭は、とうとう堪えきれずに、内側に向かって倒壊した。
残心をとって息を吐く和尚の上に、柱と梁が崩れ落ちる。
青銅和尚は目を閉じたまま、腕だけを上に差しあげ、落ちてきた瓦礫を払った。

和尚は、ほとんど動かずに矛の柄を脇で挟み込んだ。
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…なんてことだい?
錫は、崩れ落ちる八角亭を見つめて愕然とした。
無表情なはずの玻璃の瞳が、信じられない光景を映して揺らめく。
激しい音と共に、瓦礫の中から弁髪の和尚が現れた。
錫は、本能的な恐れから、近くの木の陰に隠れる。
和尚が発する凄まじい闘気が肌を刺した。
この気は、いったい何さ?
和尚の位置から、錫の姿は見えるはずがなかった。
だが、突き刺すような殺気と燃えるような闘気が、四方八方に照射されている。
獣の気だ。
辺りの敵を探り、決して生かしてはおかない狼の気。
昼間、阿呆のように子供と戯れていた男とは思えない。
錫の研ぎ澄まされた暗殺者の勘が、鐘のように鳴り響く。
手ごわい…!

気がつくと、錫は追われる兎のように走り出していた。
追い打ちをかけるように、雨が降り出す。
最初は、ぽつり、ぽつり。
やがて、ざあ、ざあ。
さっきまで明るく輝いていた月はどこかへ隠れ、漆黒の闇が広がった。
雨あしは瞬く間に激しくなり、錫の全身を濡らした。
…親方様!
錫は頼みに思う唯一の人を呼んだ。
しかし、親方様はここにはいない。
お使いのペリットも、昼間、命令を告げただけで去っていってしまった。
ひとりぼっちで、濡れ鼠だ。
錫は森に入り、どうにか見つけた木の洞の中に潜り込んだ。
惨めな気持ちが襲ってくる。
…あたしのネプトジュノーを倒すなんて。
錫は子供のように爪を噛んだ。
親方様に教わった暗殺の術は、非常に変わっている。
西方渡来の精霊を召喚して、敵を撃たせるものだ。
召喚した術師と精霊が離れた位置にあっても有効なため、証拠が残りにくく、術師が傷つくことはまずない。
まさに、究極の暗殺術といえるだろう。
使役する精霊は、かの国の言葉ではネイティアルと呼ばれていた。
ネイティアルを使う術はとても難しく、しかも生まれつきの才能を要した。
錫は、その力の故に親方様に可愛がられ、ここまで大きくなったのだ。
海亀にのった鎧騎士…ネプトジュノーは、錫の得意とするネイティアルだった。
それが、こともなげに敗られるとは。
…親方様は、あいつを裏切り者だといってたけど。
ならば、あいつもネイティアル使いなのか?
『闇』に属する者は、たいがいネイティアルを操ることができる。
いや、操ることが出来なければ『闇』の者として認められない。
もちろん、体術や剣技を得意とするものも多いが、それもネイティアルの術を補助する副次的なものだ。
『闇』は、文字どおりこの世界の闇に生きる暗殺者の組織。
その全貌や存在意義は、錫のようなただの『駒』には知るよしもなかったが、どういった種類の人間が属するのかは、においでわかる。
あの男は、子供と遊んでいる時は、闇のにおいがしなかった。
しかし、ネプトジュノーを倒した時には、錫と同じにおいがした。
間違いなく、ネイティアルを操れるはずだ。
それも、かなり強力な種類のものを召喚できる実力を持っていると思う。
なのに、なぜ、ネイティアルを出さなかったのだろう。
もし、出されていたら、あたしは殺されていたかもしれない。

錫は思い出して身震いし、洞の中で丸くなった。
見開いた玻璃の瞳に、雨が映る。
ふいに、雷鳴が轟いた。
どこかに落雷した気配がする。
青白い春雷を見つめて、錫はまた和尚の闘気を思い出し、拳を握りしめた。




「掟」・第二回終わり



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