掟 Shotr Stories
 [ 第三回 ]


早朝。
激しい雨音で目が覚めた童子は、蓑笠をつけて表に飛び出した。
夜半からの雨がいつまでもやまない。
オンボロで雨漏りし放題の八角亭で、和尚はどうしているのか。
気になってたまらずに、泥道を駆けた。
はだしが、ぬかるみにめり込んで、走りにくい。
でこぼこ道のくぼみには池のように水がたまって、そこここに小さな流れが出来ていた。
「あれ?」
八角亭の丘へ続く坂を登りながら、童子は額に手をかざした。
いつもなら、木々の間に見えるはずの、色あせた朱色の屋根がない。
童子の心臓が、どくんと鳴った。
びちゃびちゃと泥をはねあげて、走る。
たどり着いた先には、無残につぶれた八角亭があった。
「和尚ーっ!」
童子は叫ぶ。
濡れた瓦礫をかき分けようとするが、幼い力ではとても手に負えなかった。

童子は転がるように丘を下り、大人たちに助けを求めた。
男たちのほとんどが、この雨のために堤防の様子を見に行っていた。
なんとか残っていた僅かな人数の男が、八角亭に向かった。
女たちも包帯や膏薬を持って、後に続いた。

童子を先頭にして、村人たちは無残な姿に変わり果てた八角亭の前に立った。
すっかり瓦礫となった建物は、村人たちを絶望させた。
この中で人が寝ていたとしたら、無事なはずはない。
全員が口を半分開けたまま、呆然と立ち尽くした。
「…死んじまった…?」
誰かが、かすれた声でつぶやいた。
それがきっかけとなって、村人たちは口々に叫び出した。
「ゆんべの雷でやられたのか?」
「雨で土台が崩れたのかも」
「あちこちガタがきてたから…」
「誰が和尚をこんなとこで寝泊まりさせてたんだ!」
村人たちは嘆き、悔やみ、憤り、やり場のない悲しみの言葉を吐いた。
童子がひときわ大きな声で泣いた。
「和尚のバカ!
 おいらンちに泊まってれば、こんなことにならなかったんだ!」

「お〜い!」
泣いたりわめいたりしている人々の背中に、呼びかける声があった。
振り向くと、蓑笠をつけた男が立っている。
「父ちゃん!」
童子が、はじけるように男に飛びついた。
涙と雨でぐちゃぐちゃになった顔を、父ちゃんの胸に押しつける。
「和尚が…和尚が死んじまったよう!」
「なに言ってんだ、おめえは」
父ちゃんは呆れ顔で、童子の頭をぽかりとやった。
「青銅和尚は堤防を直してるよ。
 おかげで、この雨をしのぐことができそうだ」
「え?」
童子は父ちゃんの顔を見た。
村人たちも父ちゃんの顔を見た。
みんなに見つめられて、たじろぐ父ちゃん。
気まずい間。
父ちゃんは、ごまかすように笑って、頭をかいた。
「そのー、すまなんだな、皆の衆。
 ウチのチビが、とんでもない勘違いしちまったみたいで。
 へへへ…」


昼過ぎ、雨は止んだ。
青銅和尚と村の男たちが堤防を補強し、村は洪水の惨事を免れた。
和尚が、雨の降り出した夜半から土手を守っていたので、作業は思いの外はかどった。
八角亭が壊れた理由については、誰もが雨のせいだと疑わなかった。
村人たちは和尚に感謝し、田植えが済んだら和尚の家を立てようと約束した。
村長が
「それまでは我が家に泊まりなされ」
と勧めた。
青銅和尚は人々の厚意に合掌で答えた。
そして、村長宅の馬屋に宿をとることを願った。
村長がいくら勧めても、母屋に泊まることを承知しなかった。
ただ、食べ物だけは、差し出されるままに全てを有り難く平らげた。

夜。
青銅和尚は馬屋の藁に体を沈めた。
農耕用のがっちりとした牡馬が二頭、囲いの中で休んでいる。
明かりは、ただ月ばかり。
村長の馬屋は、家々からは少し離れた田んぼの近くにある。
村人たちの団らんの声も聞こえず、蛙の声だけがゲコゲコとこだましていた。
和尚は藁の中でみじろぎもせず、夜のしじまに響く音を聞いていた。
眉を寄せ、唇を真一文字に結んで。
疲れているはずなのに、まんじりともせず、虚空を見つめていた。

ふいに、がたり、と扉が鳴った。
「和尚…」
愛らしい声が耳に届く。
見ると、童子が戸口でもじもじしていた。
細く開けた扉に隠れるようにして、こちらを伺っている。
微妙に首をかしげたところが、なんともかわいくて、和尚はふっと眉を開いた。
「一緒に寝ていい?」
遠慮がちな小さな声。
和尚は「おいで」という代わりに、軽く腕をあげた。
童子は喜んで、藁の中に飛び込んできた。
泳ぐように手足をばたつかせて、和尚に抱きつく。
和尚は枕の代わりに右腕を貸してやった。
働き抜いて汗臭い和尚だが、童子はそのにおいに安心してか、柔らかい頬を押しつけてきた。
「和尚がいて、よかった」
つぶやく。
「和尚がいなくなったら、どうしようかと思った。
 おいら、とっても心配だった」
和尚は細い目をますます細めて、童子を見た。
餅のようにぷくぷくした頬を、そっと指でつつく。
童子は、力説した。
「おいらが和尚を守ったげるからね。
 雨が降っても、雷が鳴っても、もう大丈夫。
 怖かったら、おいらに言うんだよ」
幼い子供にありがちな、つたない言葉だ。
しかし和尚には、童子のいわんとしていることがよくわかった。
大人の言葉に訳せば「八角亭の下敷きになりかかって、さぞ怖かっただろう」と、思いやってくれているのである。
和尚は、童子の気持ちがとてもうれしかった。
「ありがとう」
無口で不器用な和尚には、それしか言えなかったが、童子には充分だった。
さっきまで眠れなかった和尚も、安らいでまぶたを閉じた。

その時。
刺すような殺気が和尚を貫いた。
薄く目を開けると、髪の長い女が、すぐそばに立っていた。
音も立てずに、忍び込んだのか。
月光に浮かぶその姿は、若いというよりまだ幼いと言ってもよい。
だが、全身の筋肉が無駄なく鍛え上げられている。
なによりも、練り上げられた闘気!
和尚は、危険なにおいを全身で感じとった。
童子を起こさないように、枕に貸していた腕をそっと外し、小さな頭を藁の上に置く。

刺すような殺気が和尚を貫いた。
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「ネプトジュノーを放ったのは、おまえか」
童子をかばいながら起き上がる。
ゆっくりとした、しかし、一分の隙もない所作。
それは、まぎれもなく『闇』の者の…

錫は、玻璃の瞳で和尚を凝視した。
ゆらりと立ち上がった敵は、錫よりも頭二つ分は大きい。
一見、ぼんやりと立っているようだが、軽く曲げられた腕は、油断なく童子を守っている。
不思議と、殺気はない。
八角亭でネプトジュノーに向けた闘気は、どこへ潜めたのか。
それとも、あたしを馬鹿にしているのか。
「裏切り者の処刑に来た」
錫は玻璃のように無表情な、透き通った声で言った。
二度と失敗は許されない。
親方様を喜ばせるために、この男を殺す。
玻璃の瞳に憎悪の炎を燃やし、後ろに飛びすさった。
黒髪が四方に翻り、全身が青い光に包まれる。
「ネプトジュノー!」
鋭い気合いと共に、西方風の鎧をまとった騎士が現れる。
騎士は、巨大な海亀の甲羅に立ち、銀の矛を構えて和尚を襲った。

和尚は童子を抱き上げ、ネプトジュノーに拳を向けた。
馬たちが怯えて、蹄を鳴らし、鋭いいななきを上げた。
ネプトジュノーの矛が、和尚をかすめる。
童子が目を覚ました。
「和尚?」
がんぜない仕草であくびをひとつする。
ふいに、恐ろしい気配に気づいて、悲鳴を上げた。
ネプトジュノーが、童子の声に興奮したかのように、猛然と襲いかかってきた。

「哈!」
和尚は片手に童子をしっかりと抱え、もう片方の腕でネプトジュノーの矛を払った。
素早く繰り返される攻撃に、和尚は防戦一方だ。
「それ、もうひとつ!」
錫は腕をかかげ、もう一体ネプトジュノーを召喚した。
二本の矛が、和尚を襲う。
和尚は壁を蹴って跳躍し、矛をかわした。

「ブヒヒヒヒ…!」
突き損なったネプトジュノーの矛が、馬の首を貫く。
馬は泡を吹いて、どっと倒れた。
和尚は、生き残った馬の前にある板を蹴り壊す。
馬の背中に童子を乗せたその瞬間。
一瞬の隙を突いて、ネプトジュノーが和尚の背後を襲った。
「!」
和尚は避けなかった。
童子を守るため、己の背中を盾にしたのだ。
甲冑はおろか、布一枚まとっていない裸の上半身で。
心臓を突き破ろうとする矛の勢いを微妙に受け流し、体表を滑らせる。
左肩甲骨の下から脇までに、ざっくりと傷が開いた。
「和尚、血が!」
童子が金切り声を上げた。
和尚は、なおも自らを盾としてネプトジュノーに背を向け続け、馬を引きずり出す。
棒立ちになる馬を無理やり押さえつけて、思い切り尻を叩いた。
もう一体のネプトジュノーが迫る。
和尚は振り向き、傷ついた方の脇で構わずに矛を挟み込んだ。
「和尚ー!」
童子は血しぶきごしに和尚の姿を見た。
馬は、狂ったように馬屋から飛び出す。
一直線に田んぼの方へ駆けて、恐怖の小屋からどんどん遠ざかった。
童子の目には、和尚の姿が見えなくなって行く。

和尚は童子と馬が駆け去ったことを気配で感じ、鋭い目でネプトジュノーを睨んだ。
殺気。
錫は二体のネプトジュノーの背後から、和尚の闘気を感じとった。
青白い雷が、和尚の全身に燃え上がる。
八角亭の時と、同じ…
和尚は低く腰を落として構えた。
傷を負っているとは思えない強さと早さで、拳を繰り出す。
瞬く間に、片方のネプトジュノーを、足元の大亀ごと吹き飛ばした。
「あ!」
錫は、危うく避けたが、なにかに足をひっかけて、あおむけざまに倒れた。
さっき倒れた馬の死骸だ。
起き上がろうとしたが、馬房の壁と死骸の隙間へひっくり返ってしまって動けない。
体をくの字に曲げたまま、あたふたする。
ちょうど力が入らない、ぶざまな具合に尻が引っかかって抜け出られないのだ。
もたもたしているうちに、残ったネプトジュノーも和尚の拳を浴び、消し飛んでしまった。 じたばたする錫の前に和尚が近づいてくる。

「殺せ!
 さあ、殺せ!」
錫はわめいた。
暗殺に失敗した闇の者には、死、あるのみ。
それが掟。
もはや、生きてなどいられないのだ。
ここで死ぬのだ。
殺されるのだ。
錫は怨念を込めて和尚を睨みつけた。


「掟」・第三回終わり



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