掟 Shotr Stories
 [ 第四回 ]


和尚は錫を見下ろして立っていた。
左脇からだらだらと血が流れている。
なのに、月光に映し出された顔は穏やかで、痛みを感じていないようだ。
ネプトジュノーに向けられた殺気は消し飛び、静かなまなざしだけがあった。
童子に向けられたのと同じ優しさ…いや、それよりも哀れみを含んだ悲しげな光が、細い目に宿っていた。
「見るな!」
錫は恥ずかしくなって叫んだ。
親方様にかわいがられ、一流の闇の者として育てられたのに。
手足を投げ出して馬の死骸の下敷きになっているなんて、あまりにもぶざまだ。
だが、和尚は錫を笑いもせず、そっと右手を差し出した。
「つかまれ」と言うように。
錫は、なおさら恥ずかしく、動かせるだけ手足をばたつかせてわめき続けた。
「殺せ!
 早く殺せェ!」
和尚は錫の腕をつかみ、小柄な体を引き上げた。
錫は猫の子のように抱えあげられる。
強い腕で軽々と、限りなく優しく。
「放して!
 放してよう!」
錫は体をよじり、子供のように叫んだ。
和尚は静かに錫を足元に下ろした。
その後は、何もしない。
ただ、優しくて悲しげな目で見ている。
錫は跳ね起き、横っ飛びに飛びすさった。
「後悔するよ!」
体を低く構えて、再びネプトジュノーの召喚に入ろうとする。
だが、和尚は立ち尽くしたまま、構えもしない。
「なんで戦わないのさ!」
錫は怒鳴った。
「あたしは闇の刺客だよ!
 あたしを殺らなきゃ、あんたが殺られるんだよ!」
和尚は黙っている。
「あたしは強いんだ!
 仕損じることなんて、めったにない。
 それがドジったんだから、倒すなら今さ!」
静かなまなざし。
「裏切り者は殺される掟なんだ!
 だから、あんたを殺さなくっちゃならないんだよ!
 親方様の、お言いつけなんだから…」
錫は自分に言い聞かせるようにわめきまくった。
しかし、和尚に見つめられていると、どうにも気を練ることが出来ないのだ。
こんなことでは、ネプトジュノーを呼び出すことなど無理だ。
ついに、らちがあかなくなって、錫は和尚に殴りかかった。
こうなったら、体術で倒す。
いざというときのために身に付けた拳法で!
錫は、拳と手刀と蹴りで和尚を打った。
しかし、頭二つも大きさの違う相手に、そんな攻撃が通用するはずはなかった。
我を忘れて怒りまくっている今は、特に。
和尚は微動だにしないまま拳と蹴りを受け止めた。
優しくて悲しいまなざしのまま。
錫は疲れ果て、へたりこんだ。
和尚は静かに踵を返し、馬屋から出ていった。

*      *      *

童子を乗せた馬は、夜中の村を狂ったように駆け回った。
騒々しい蹄の音と、童子の泣き叫ぶ声とで、大人たちはすぐに気付き、暴走する馬を止めた。
馬から下ろされた童子は、
「和尚が、和尚が」
と泣きわめくばかりで、大人たちには何が起こったのかさっぱりわからない。
そこへ、背中と左脇からだらだらと血を垂らした青銅和尚が歩いてきたのだから、さあ大変。
村中、大騒ぎになった。
童子は火の側へ連れて行かれ、体に傷がないことを確かめられると、すぐに家で寝かされた。
幼い子供のこととて、興奮し疲れて、すぐに眠ってしまう。
和尚には、女たちが群がって、傷の手当てをした。
親切なおかみさんたちは、傷口を洗いながら、口々に問うた。
「どうしてこんなケガをしたの?」

和尚は答えることが出来ずに黙り込んだ。
不器用なので、嘘をつくことが出来ないのだ。
しかし、本当のことを言うわけにはいかない。
しかも、これだけの傷を黙っていることも許されない。
困っていると、おかみさんのひとりが、
「熊かしら」
と言った。
ネプトジュノーの矛は、先が三つに分かれていて、なおかつ鉤状のかえしがついていた。
そのため、確かに、獣の爪で引っかけたような傷を残す。
第一、村人たちには全くなじみのない異国の武器だ。
それでつけられた傷など、想像できるわけもない。
知っている事象の中で妥当な原因を見つけるのが人の常というものだ。
善意の村人たちは、和尚の傷は熊によってつけられた、と勝手に解釈してしまった。
結局、和尚が『闇』の刺客に襲われたことは、全く誰にも知られなかった。

*      *      *

「愚か者!」
小さな妖精は小枝を振り回し、錫の頬を打った。
「恥を知れ!」
親方様の太い声で、罵る。
小枝が何度も何度も往復し、錫の頬は細かな傷だらけになった。
一打一打は決して痛くない。
だが何度も繰り返されれば血がにじむ。
いや、それよりも…
屈辱の痛みの方が耐え難かった。
玻璃の瞳を見開いたまま、耐える。
和尚と対峙していたときの恥ずかしさや憤りは、もはや冷め始めていた。
溶岩のように煮えたぎっていた激情がだんだんと冷え固まって、氷塊のように胸の中にとどこおっている。
心臓が凍りついて、ぴしぴしとひび割れるような。
玻璃の瞳にも、ひびが入るような…。

「錫」
ふいに、ペリットの声が柔らかくなった。
親方様の温かい呼びかけ。
ペリットは小枝を投げ捨てた。
そっと耳もとによって、また囁く。
「わしの可愛い娘。
 おまえは、あの日のことを忘れたか?
 炎にまかれて、逃げ惑った時のことを…」

それは、錫がまだ四つになったばかりのことだった。
そのころは、確か、ちゃんとした名前で呼ばれていたと思うのだが、全く覚えていない。
とにかく、錫は炎の中にいた。
家が燃えている。
村が燃えている。
幼い女の子は、燃え盛る炎の中をさまよっていた。
激しい蹄の音がする。
火矢の飛び交う音がする。
凶暴な鬨の声。
燃える柱が倒れる。
業火の中で逃げ惑い、叫ぶ声がする。
…阿母(かかさま)、阿父(ととさま)…。
女の子は、両親を呼んで泣いた。
…お逃げ。早くお逃げ。
耳には、母の声が残っている。
母は女の子をかばい、炎にまかれた。
その隣には、背中じゅうに火矢を浴びた父が倒れていた。
紅蓮の炎の中で、なにもかもが幻のように思えた。
女の子は、焼け落ちた瓦礫の中をはだしで歩いた。
やわらかな足はたちまち火膨れになって、一歩踏み出すごとにひどく痛んだ。
もう、歩けない。
そう思ったとき、炎の天幕を割って、大きな人影が現れた。
全身を包む黒装束。鎧兜。
あごを覆うこわいヒゲ。
人影は、女の子を大きな手で抱き上げた。
「怖くない、もう怖くないぞ」
黒い人は、女の子を抱えたまま、大きく跳躍した。
およそ人とは思われぬ高さを。
女の子は燃え落ちる家々の屋根を見た。
黒い人は何度も跳躍し、空を駆けるように炎から飛び出した。
その間中、
「いい子じゃ、いい子じゃ」
と、女の子を励ましてくれた。

そう思ったとき、炎の天幕を割って、大きな人影が現れた。全身を包む黒装束。鎧兜。あごを覆うこわいヒゲ。
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黒い人は、女の子を山奥の大きな家に連れていった。
そこには、五つか六つの子供たちが大勢いた。
子供たちは黒い人の姿を認めると、
「親方様」
と呼んで駆け集まった。
女の子は「ああ、この人は親方様というんだな」と思った。
子供たちは親方様を慕い、大きな体を取り囲んだ。
親方様は、子供の群れの中に、女の子を降ろす。
そして、錫箔の輪を取り出して、女の子の額につけた。
「錫じゃ」
子供たちは、女の子を冷たい目で見た。
みんな、玻璃のような目をしていた。

それから。
錫は、ネイティアルを召喚する術と拳法を仕込まれた。
ここにいる子供たちは、みんな、そうするのだ。
どうやらみんな、錫のような境遇の子供たちらしい。
親方様に救われて、この家に集められ、術と技を習う。
うまく出来なければ容赦なくムチで打たれた。
いつまでたってもネイティアルを呼び出せなかった子供が、いつの間にかいなくなっていたこともあった。
だが、他人のことなど、どうでもよかった。
親方様は、錫にだけは、とても優しかったのだ。
それは、錫が、ずば抜けて優れていたからに他ならない。
ネイティアルには、いろいろな種類があって、大した能力を持たないものもあれば、強力な攻撃力を持つものもある。
強い力を持ったネイティアルは、召喚が難しいのだ。
ネイティアルを呼び出せるだけでも並外れた子供だが、強力なものを出せなければ、意味がない。
錫は、ネプトジュノーのような大型のネイティアルを数多く呼び出すことができた。
親方様は厳しかったが、なにかにつけて「錫、錫」と贔屓してくれた。
錫は、親方様を喜ばせたくて修行に励んだ。

「わしの可愛い錫よ」
ペリットは、大人になった錫の耳元で囁いた。
「おまえはわしの宝じゃ。
 わしを喜ばせてくれるな?」
錫は、玻璃の瞳で親方様の声を聞いた。
炎の中から救い出されて以来、頼りに思い続けた声だ。
他の子供には向けられない、錫だけをかわいがってくれた声だ。
親方様に報いたい。
喜んでもらいたい。
もっと、もっと、かわいがってもらいたい。
そのためには…
「裏切り者を殺せ」
ペリットは冷たく言った。
「強い相手にも、必ず弱点がある。
 あの子供を使え」
「子供…」
「和尚が可愛がっている子供じゃ。
 あれを、殺してしまえ」
「殺す…」
錫は、玻璃のような声で、親方様の言葉を繰り返した。
「殺す…」


「掟」・第四回終わり



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