吐息 Shotr Stories
 [ 第二回 ]


ヴァンテージマスター・ヒストリカルストーリー
トゥ
『息吹』


市場は活気に満ちていた。
道の両側に所狭しと並んだ露店からは、大きな売り声が響いている。
「いらっしゃい、いらっしゃい。
 干しイチジクが安いよ、甘いよ!」
「ハピの河でとれたナマズだ!
 スズキもあるよ!」
「ビール、ビール、冷たいビールは、いかがかねえー」
広い道は人でごった返し、歩く隙間もない。
道に面した家々の屋根の上にまで、人々があふれている。
日干しレンガを泥で塗り固めた箱形の屋根は、通路や店としても機能するのだ。
泳ぐように行き来する人々の上に、乾期の太陽が降り注ぐ。
灼熱の光を直接浴びている部分は、みんな白だ。
陰になっている所にだけ、色があふれている。
台からこぼれそうなイチジク、ナツメヤシ、ザクロ。
レタスとモロヘイヤの山。
ずらりと並べられた牛たちの前で、商人と買い物客が怒鳴り合っている。
その隣では、細長い指をしたヤサ男の商人が、金持ち風の奥様を相手にどうやって織物を売りつけようか、おせじの限りを尽くしていた。

ここには、なんでもあった。
メルの都最大の市場には、国中のあらゆる品物が集まる。
食品、貴金属、家畜、家財道具、武器、何に使うのかよくわからない奇妙ながらくた。
それらに群がる人々も、また雑多だ。
メルの人々よりも、もっと肌の黒い南方人や、紅毛碧眼の北方人。
目つきの鋭い砂漠の民族もいる。
商人、貴族、労働者、旅人、集まってくる人々をあてこんだ占い師や芸人たち。
てんでにうごめく人間の流れ。
奔流。

人の河の真ん中で。
取り残された置き石のように、少年が突っ立っていた。
小柄で手足がやたらと長く、ガゼルを思わせる華奢な体つきは、少女のようでもある。
やけに白くて汚れがない亜麻の長衣、帯に挟んだ小さな剣。黄金の腕輪と足輪。
大きな目のまわりには虫よけのマスカラを巡らせ、孔雀石の粉をまぶたに塗り込んだ、メルの国独特の化粧をしている。
ねじれた房のついたカツラの隙間から、小ぶりだが混じり気のない輝きを放つ黄金の耳飾りが、見え隠れしていた。
その足元には、大きな雌のライオンが番犬のごとく侍っている。
すらりとした首には、色石のビーズをつなぎ合わせた輪がめぐらされていた。
この国では、ライオンを飼うことは決して珍しいことではないが、もちろん庶民の手が届くようなシロモノではない。
お忍びで散歩に出た、貴族の子弟といったところか。
少年は雑踏をそぞろ歩き、頻繁に立ち止まっては辺りを見回して、黒曜石の輝きを持つ瞳をきらきらさせていた。

その足元には、大きな雌のライオンが番犬のごとく侍っている
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「坊ちゃま、坊ちゃま。
 のどが乾いたでしょう?」
太った商人が少年の袖をつかんだ。
「バラにハチミツ、ハッカにアニス、レモンにシナモン。
 お好きな味の水が、なんでもござれです。
 それとも、ビールやぶどう酒にしますかね?」
強引に店へ連れて行こうとする。
飲み物の壷がずらりと置かれた前に、木で出来た小さな椅子が並んでいた。
そのいくつかには客たちが腰かけて、冷たい飲み物にのどを鳴らしている。
灼熱の市場では、魅惑的な光景だ。
少年は思わず唾を飲み込んだ。
「そうだな…」
太った商人は、客の気持ちが動いたのを見逃さない。
「さあ、さあ、さあ」
と、せきたてて、少年を椅子に座らせた。
素早い手つきで杯をつかみ、壷を指さしてまくしたてる。
「ビールですかい、ぶどう酒ですかい?」
「私は、酒は好まぬ」
「じゃあ、レモンだ。レモンがいいですよ」
うんともああとも言わない前から、商人は杯をレモン水で満たした。
少年の足元で、ライオンが小さくのどを鳴らす。
「おや! これは気がつきませんで」
商人は、少年にレモン水の杯を押しつけると、近くに置いてあるテラコッタの皿に水を汲んだ。
「犬用の器で失礼しますがね。
 いやいや、ライオンをお連れのお客様は多くありませんので」
おしゃべりしながら、さっさと仕事をする。
目の前に皿を突き出されて、ライオンはたまらず、舌を水に浸した。
「よかったね、セクメト」
少年はライオンの頭を撫でた。

「この野郎、待ちやがれっ!」
少年がレモン水を一口飲み込んだ時。
のどかな空気をつんざいて、罵声が響いた。
乱闘が始まりそうな予感。
市場に集まる人々は、我が身と商品を守るために、あたふたし始める。
少年は、杯を持ったまま、声のした方を見る。
「待ちやがれ、待ちやがれえっ!」
罵声は、どんどん近づいてきた。
人の流れが、ぱっと割れる。
「やめてくれ!
 商売の邪魔をしないでくれ!」
近くの商人たちが悲鳴に近い叫び声をあげた。
両手を胸の前で握りしめた男の子が、隼の勢いで突っ走ってくる。
年の頃は、八つか九つといったところか。まだ、大ぶん幼い。
その後ろから、三人の大きな男たちが、自分たちの腕と同じぐらい太い棍棒を振りかざして、追いかけてきた。
ライオンを連れた少年は、目をぱちくりした。
あの子供は、どうして追われているのだろう。
男たちは、棍棒で子供をぶつつもりなのだろうか。
いくらなんでも、幼い子供にそれはひどすぎる…
少年はレモン水の杯を置いて、すっくと立ち上がった。
背中をまっすぐに伸ばした王者の姿勢で、騒ぎの方へと足を踏み出す。

「ごめんよっ!」
そこへ、男の子が小さなつむじ風になって突進してくる。
それは、少年の薄い胸板に、まともにぶつかった。
あおむけざまに倒れる少年。
きらきらと黄金の輝きが目の前で踊った。
「…アニキ、これ頼むよ!」
男の子は周り中に聞こえるような大声で言い、ぺろりと舌を出した。
少年は尻もちをついたまま、呆気にとられて男の子を見た。
小さなつむじ風は少年を飛び越えて、瞬く間に人の波の中へ紛れ込んだ。
大人たちの脚の間をくぐり抜けて。
もはや、誰にも追いかけることなどできない彼方へ、鮮やかに退場した。

少年は地面の上に座り込んだまま、その様子を見送った。
首の回りに、じゃらりとした金属の肌触りがある。
胸に視線を落とすと、大きな紅色の瑪瑙をはめ込んだ金の鎖があった。
いつの間に?
少年は瑪瑙をつまみ上げて、眉を寄せた。
棍棒を握りしめた男たちが、こちらへ迫ってくる。
「てめえ!」
汚い言葉が、少年の耳を打った。
「ガキを手先に使うとは、ふてェ野郎だ」
少年には、何のことだかわからない。
ただ、男たちを見上げる。
「手先?」
「アニキって呼ばれてたろうが!」
「私はあの子供の兄ではない」
「しらばっくれるんじゃねえ!」
少年は、男のひとりに襟首をつかまれた。
華奢な体が、宙ぶらりんにぶらさげられる。
雌ライオンがうなった。
少年はぶら下げられたまま、
「おやめ、セクメト」
と、鋭く制した。
ここでライオンが暴れたら、大惨事になる。
しかし…

ライオンが、主人の命令と主人の体と、どちらを守るべきか悩みながら足踏みした時。
少年の頭上で、びちゃっ、という妙な音がした。
つぶれたイチジクがひとつ、砂の上に落ちる。
「う…」
少年をぶらさげていた男が、うめいた。
両手を目に当て、顔中にブチまけられた果汁を払おうとしている。
少年の体は砂の上に投げ出された。
頭を越えて、次々と、イチジクの実が飛んで行く。
熟れた実が、正確に男たちの顔面に当たっては飛び散った。
果汁が目に染みるのか、男たちは、ひいひいと情けない声をあげた。
「ほらよ、モタモタしなさんな」
少年の背中に、若い男の声が響いた。
どこから現れたのか、やたらと背の高い青年が、ひょろりと立っている。
青年は少年の腕をつかみ、人込みの中に割って入った。
「ごめんよ、ちょいとごめんよ、ほい、失礼」
調子よく声をかけながら、人の波を泳ぐ。
「そなたは?」
少年はなすがままに腕を引かれながら、問いかけた。
「話は後、後。とにかく、トンズラすんの」
青年はわき目もふらず、人込みをかき分ける。
やがて、
「野郎…!」
という下卑た叫びが上がった。
イチジクの果汁をどうにか払った男たちが、こちらに向かってくる。
人々が、悲鳴をあげて左右に割れた。
「あーあ、もう立ち直りやがったぜ」
背の高い青年は体を屈め、少年のあばらの辺りを両手でつかんだ。
急にとんでもないところをつかまれて、少年はびくりと緊張する。
「…せーの!」
青年は少年の華奢な体を持ち上げて、上に向かって放り投げた。
曲芸師たちが組み術をするように。
少年の体は、道の端に並ぶ四角い家の屋根まであがった。
「なにをするか!」
あまりのことに叫んだが、驚いている場合ではない。
早く受け身を取らなければ、肘か膝かを割ってしまう。
少年は体を丸め、泥で固めた日干しレンガの屋根に転がった。
「お上手!」
背の高い青年は口笛を吹き、近くの露店の天幕に両手をかけた。
布のたわみを操って、ぐるりと回転する。
細長い体が、天幕の上で弾んだ。
商人たちの悲鳴、男たちの罵声。
少年は、何が起きたかわからないまま、半身を起こした。
そこへ、青年のひょろ長い腕が伸びてくる。
再び手をつかまれ、市場の向こう側へ。
追ってきそうな怒鳴り声が聞こえたが、それはどんどん遠ざかっていった。
                                

第二回・終わり



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