吐息 Shotr Stories
 [ 第八回 ]


「くそっ、俺様としたことが!」
青年は、短刀を引き抜き、雌ライオンを捕らえている網に突き立てた。
混乱した獣の爪が、顔すれすれの所を掠める。
「暴れるなよ、姉ちゃん!」
青年は、人間の女を相手にするように怒鳴った。
強い声にびくりとして、セクメトは四肢を硬直させる。
「そうだ。おとなしくしてりゃ、助けてやれるんだ」
短刀が一閃して、網がぱらりとほどけた。
セクメトは大きく息を吐き出して、硬くなった首を地面に下ろす。
青年は短刀をロインクロスの帯にひっかけた。
「くそォーっ!」
再び自分に毒づいて、拳を地面にぶつける。
…ぬかっていた!
お姫様が、ガキに誘われて路地裏に入ったとこまでは見えたんだ。
なのに、酔っ払いどもが、あっちからもこっちからも引っかかって来やがって!
そしたら、このザマだ!
「…なあ、姉ちゃん。
 お姫様が、どこに連れてかれたか、わかるかい?」
仕方ないとわかっていながら、青年は雌ライオンに問いかけた。
セクメトは金色の瞳に青年の細長い顔を映し、二三度、まばたきした。
そして、ゆらりと立ち上がる。
「うぉん」
と、短く吠えて、鼻先を天に向けた。
ぴくぴく、ヒゲを動かす。
「…匂うのかい…?」
青年は立ち上がり、
「偉いぞ、姉ちゃん!」
と、セクメトの尻を叩いた。

*      *      *

気がつくと、王女は大きな四角い空間の中にいた。
四面をきっちりと囲われた、石の箱の中。
天井まで、みっちり石が積み上げられているが、頭上にはいくつかの丸い穴が開いている。
その穴は等間隔で並び、微かな星明かりが床の上に丸い光を落としていた。
遠くで、水の流れる音がする。
ハピの河だ。
都を離れ、ずいぶん遠くまで連れてこられてしまった。
王女は網から出されたものの、後ろ手に縛られ、大きな壷につながれている。
形からすると、麦を入れる壷らしい。
この四角い空間も、どうやら穀物の貯蔵庫だ。
目を凝らしてみると、壁の一角に、赤い線で目盛りが刻まれているのが見える。
頭上の穴は、穀物を落とし込むためのものだ。
この部屋は半分地下に埋まっており、取り入れた麦などを好条件で貯蔵できるようになっている。
観察できることと、家庭教師から教わったことを照らし合わせれば、そんなところだ。
しかし、ひとつだけ、教わったことと合わないことがある。
それは、この空間が空っぽだということだ。
今時分のメルは、収穫期を迎えているはず。
本来なら、ここには小麦がぎっしり詰まっていて、おかしくない。
なのに、一粒の麦さえ見当たらないのだ。
まさか、私を閉じ込めるために、ここを空けたというわけでもあるまい…

考えを巡らしていると、壁の一角から、軋んだ音がした。
ちょうど王女の真向かいに当たる部分が開いて、丸い灯りがいくつか飛び込んできた。
油皿を手にした人影が、ひとつ、ふたつ、みっつ。
十人を数えたところで、壁は再び閉じられた。
「この子が、その…金持ちの子かい?」
人影のひとつが、王女の顔に光を近づけた。
油皿を持つ手が、ぶるぶる震えている。
おっかなびっくり。
おびえているような態度だ。
「今更、ビビってるんじゃねえよ!」
後ろにいる体の大きな男が、怒鳴った。
残りの九人が縮こまる。
「だってよう…かわいそうじゃねえか。なんにもしてねえのに」
「なんにもしてねえだと!?」
強気の男が、更に声を荒げた。
「俺たちばかりに働かせて、たんまりごっそり上前をはねて行く貴族が!
 なんにも、してねえだと!?」
一同は黙り込んだ。
王女は、目を細めて、連中を見まわした。
日に焼けて、真っ黒な顔をした男たち。
メルの民は浅黒い肌の人種だが、都で見かける人々よりも、余計に黒い。
身なりはみすぼらしくて、ロインクロスと呼ぶにはおこがましいような、ボロボロの布を腰に巻きつけているだけだ。
もちろん、カツラなどつけてはいない。
床屋に行っていないのが容易に見てとれる、伸び放題の髪の毛だ。
どの顔にも、疲れが深く刻まれている。
ひとりだけカラ元気を出している男が、また怒鳴り始めた。
「いいか?
 俺たちにゃ、残された道はひとつっきゃねえんだ。
 この坊ちゃんのオヤジに揺さぶりをかけて、食べ物かお宝をもらう。
 さもなきゃ、みんな、飢え死にだ!」
男は王女に、ずいっと顔を近づけてきた。
泥のにおいがする。
それとも汗のにおいなのか。獣臭いようにも思える。
王女の知っている人間と言えば、たいてい香のにおいがするものだ。
「わかってるかい、坊ちゃん」
男は、悪ぶった調子で迫ってくる。
「おめえのオヤジの名前を言いな。
 迎えに来てもらうんだ。お土産を、たんまり持ってな」
王女は目を細め、男の顔をじっと見据えた。
父の名を言えと?
ヘセティ四世の名前を出したら、この男はどういう反応を示すのだろうか。
いや、ヘタに素性を明かせば、混乱に陥って、攻撃的な行動に出るかもしれない。
「さあ、父親の名前を教えな。
 おめえは、どこの坊ちゃんだ?」
言えない。
「オヤジは誰だって聞いてるんだよ!」
男は、突然、鎌を振りかざした。

「ひゃーっ!」
王女がおびえるより早く、残りの九人が悲鳴を上げた。
「ば、ば、馬鹿野郎!」
鎌を振り上げた男も、喉が裏返ったような高い声を出す。
「おめえたちがビビってどうすんだよ!」
かわいそうになるくらい、びくびくしている。
膝がわななき、そのふるえが全身を駆け登って、鎌の先がふらふら揺れる。
王女は、おびえるべき場面を失った。
なんだかおかしくなって、少し笑ってしまう。
「な、なにがおかしいっ!」
凶器のやり場に困った男が、叫んだ。
「こ、殺したっていいんだぞ!」
鋭い刃が、弧を描く。
「脅しじゃないんだ!」
鎌が、王女のカツラをかすめ…

「おら、おら、おらーっ!」
やたらと巻き舌な雄叫びが響いた。
天井の穴から、二つの黒い塊が落ちてきた。
ひとつは長い棒を振り回し、もうひとつは四つ足をついて鎌を持った男を押し倒す。
猛り狂う、獣の咆哮。
「セクメト!」
王女は叫んだ。
獰猛な雌ライオンは、獲物の体を押さえ込み、怒りに任せて喉笛を咬み破ろうとした。
「おやめ、セクメト!」
王女は声の限りを張り上げた。
びくりと止まるセクメト。
九人の男たちが悲鳴を上げながら、逃げ回る。
それを追いかける、新しい人影。
無手勝流のむちゃくちゃな型で、長い棒を振り回す。
「おやめ!
 おやめったら!」
追われる者たちは、すでに戦意をなくしている。
ひゃあひゃあと、泣き声なのか悲鳴なのかわからない叫びが、四角い空間にこだました。
なおも、容赦することなく棒を振り回す闖入者。
その手足は、やたらとひょろ長い…
「ええい、静まれい!」
王女は一喝した。
弓弦を弾く、王者の声。

時間が凍りつき、全てのものが固まった。
九人の男たちが部屋の一角で、ネズミのようにしゃがみ込む。
棒を持った人物が、ゆっくりと王女の方を振り返った。
「なんだよ。
 せっかく、助けに来てやったのに」
拍子抜けした声が、間抜けに響いた。
星明かりが細長い青年の顔を描き出す。
追い詰められた男たちが、一斉に「ほおーっ」と、ため息をついた。
セクメトの足の下では、鎌を持った男が白目をむいて泡を吹いていた。

「…全く」
青年は、棒きれを降ろし、ボサボサの髪の毛をかき回した。
ずるん、ぺたんとだらしなくサンダルを鳴らしながら、王女の方に歩み寄ってくる。
「あんたは、なんにもわかっちゃいねえんだ」
ぶつぶつと。
石造りの穀物庫の中に、不満げな声が反響した。
王女も、負けてはいない。
「わからぬのは、そなたの方だ。
 弱い者いじめをして、どうする!」
青年は舌打ちした。
王女は後ろ手に縛られ、小麦の壷につながれたまま、なお強気で青年をにらんだ。
「…全ッ然、わかっちゃいねえ」
青年は、ロインクロスの帯にひっかけた短刀を引き抜いた。
王女をいましめている縄を叩き切る。
「ほらよ。ケガしてねえか?」
身長の高さを誇示しながら、これ見よがしに腰を折り曲げ、あごを突き出す。
「心配には及ばぬ」
王女は、じんじんと痺れている手首をさすりもせず、胸を張った。
青年は片方の眉をちょっと上げ、口の中でなにかぶつぶつ言った。
王女には「意地っぱりめ」と聞こえたが、なぜそんなことを言われるのか分からなかった。
青年は、短刀をロインクロスの帯にしまい、縮こまっている男たちの方を振り返った。
「…やいやい、この、ボロ雑巾共!」
当たり散らすように怒鳴って、長い棒を振り上げる。
びくん、と男たちが竦んだ。
「てめえら、こんなことしやがって、ただで済むと思うなよ!」
これを聞いて、王女は眉をつり上げた。
青年の前に回って、両手を広げる。
「よせと言うのがわからぬか!
 …セクメト、お前も!」
言われて、哀れな男の上にのしかかっていたライオンもびくりとした。
そっと獲物から降りて、王女の方を伺う。
王女は「シッ」と、ライオンの言葉で怒りを現した。
セクメトは、ごまかすように男の顔を舐めてみせた。
王女が「よし」と、うなずいた時。

「父ちゃん!」
子供の声がした。
四角い空間の一角に入り口が開いて、小さな人影が現れた。
都で会った男の子だ。
男の子は、倒れている男の姿を認めて、泣きそうな声をあげた。
白目をむいて泡を吹いている男の首にすがりつく。
続いて、
「おまえさん!」
という女の声も響いた。
闇を四角く切り取ったような入り口から、おかみさんたちがわらわらと、なだれ込んできた。
「…やってらんねえぜ」
青年は手にした棒切れを放り投げた。


第八回・終わり




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