吐息 Shotr Stories
 [ 第十回 ]


そして。
ことは思うようには運ばなかった。
王宮に戻ったメル・レー・トゥは、王女にふさわしい罰を受けることになってしまった。

勉強部屋に押し込められて、無理やり椅子に座らせられる。
大きなテーブルの上には、二つのパピルス紙の山がそびえていた。
左の山は、『神々への賛歌』。
レー神をはじめとする四十二柱の神々を一柱ずつ丁寧に讃えた、長い長い長い詩文。
右の山は、それを写すための真新しいパピルス。
椅子の後ろでウネベト女史が、
「全て書き取るまで、お部屋からお出ししませんよ」
と、鼻息を荒くしている。
この膨大な量の書き取りが、父王ヘセティ四世の決めた罰なのだった。
ウネベト女史の監視は厳しく、今日という今日は抜け出せそうにない。
王女は、心をよぎる農民たちの姿にさいなまれた。
書き取りをするパピルス紙の上に、あの、男の子の顔が浮かんで見える。
こけた頬の上でやたらと目立つ瞳。
細い腕と脚。
瑪瑙の首飾りを盗んだ…いや、盗まざるをえなかった、幼い子。
追い詰められて。

王女は、神への賛歌を書かされながら、焦り続けた。
父上は、こんな子供だましの罰で、私を押さえつけるつもりか?
逃げ出す機会をうかがったが、太陽がメルの塔の向こうに隠れるまで、放免されることはなかった。

やっと自由になってから、王女は、セクメトを連れてデペイ叔父のもとへ行った。
図書館の四角い窓からは、ゆらゆらと灯りがもれていた。
優しい叔父は、メル・レー・トゥを喜んで迎え入れてくれた。
いつもの椅子を勧め、イチジクやナツメヤシの乗った皿を出す。
「きっと、来ると思っていたよ」
叔父は、他の誰にも見せない顔で笑った。
メル・レー・トゥのことは、何でもわかっていてくれるのだ。
「ずいぶん、冒険をしたみたいだね」
男性にしてはあまりにも華奢な指で、イチジクをひとつ差し出した。
王女はそれを受け取らず、両手を胸の前で固く握り合わせた。
「叔父上に、相談があります」
「どうしたの、そんなに改まって」
叔父は、イチジクを持ったまま、首を少しかしげた。
「農民たちを、助けて下さい!」
王女は、いきなり本題に入った。
自分自身さえびっくりするような、切羽詰まった声が出た。
膝が震えてくる。
セクメトがいたわるように、体をくっつけてきた。
叔父も、イチジクを皿に戻して、自分の椅子を王女の椅子の側へ引き寄せた。
温かな手が肩に触れる。
王女は、セケムと分かれた後のことを話した。


王宮の門前に戻った時。
父は、兵士たちをずらりと並べて、王女捜索の指示を出していた。
百人ばかりの部隊を前に、堂々と指揮鞭を振るう父は、王として、非の打ち所がない華麗さを誇っていた。
頭には、黄金のコブラが巻きついた冠。あごには箱形のつけ鬚。
まだ四十を回ったばかりの頑健な胸には、陽光を現す細かな金の短冊と瑠璃を彫った甲虫の飾り。
金糸銀糸で彩った豪奢な帯には、いくつもの宝玉をちりばめた剣をおび、あくまで白いロインクロスには蓮の模様を縫い取った前垂れがついている。
足には、もちろん黄金のサンダル。
毒々しい程きらびやかな装いだ。
メル・レー・トゥは、そんな父の姿に少し怒りを覚えた。
しかし、同時に、王家の財産を民衆に分けても、かなりの余裕があるだろうとも思えた。

王女は、その場に身を投げ出して、父王の前にひざまずいた。
厳しい年貢を棒引きにし、王宮の宝物庫と穀物の備蓄庫を開いて、飢えた農民たちを救って欲しい、と頼んだ。
声の限り、心を尽くして訴えた。
ところが。
父…ヘセティ四世は首を横に振ったのだった。
曰く「年貢を納めるのは、農民の義務だ」と。
そして、流れるように兵士を解散させ、ねぎらいのビールとパンを与えて、宮殿の中に戻っていった。
王女は、父王の後を追った。
寝室まで早足に歩いて行く父の腕にすがり、農民たちの窮乏を細かく説明した。
しかし、ヘセティ四世は、厳しい態度を崩さなかった。
寝室に入ろうとする前に、やっと少しだけ、王女の方を振り向いた。
「…今年の凶作には、余だとて胸をいためておる。
 しかし、シェメウへは定められた通りの分量を上納せねばならない。
 いまの段階でも、それには全く足りていないのだ。
 いずれ、王宮の宝庫も開くことになろう」
「シェメウに頼むことは出来ないのですか?」
「出来ぬ」
「何故です!
 シェメウは私の嫁ぐ国。ジェア王は私の…」
…夫となる人のはず。
メル・レー・トゥは、後半の言葉が言えなくて、口ごもった。
父の目がうるんでいるように見えたからだ。
大きな優しい手が、王女の砂にまみれた頬をそっと撫でた。
一瞬、メル・レー・トゥは幼い日のことを思い出した。
王女の責任という言葉を聞かされる前のこと。
父を陛下と呼ぶようにしつけられる前のこと。
…お父さま。
幼い頃の呼びかけが、口をついて出そうになった時。
父は何かを断ち切るように、くるりと背中を向けた。
寝室の入り口にかかった天幕を荒々しく開く。
そして、王の厳しい声に戻って、
「シェメウに弱みを見せるわけには行かぬ。
 そのためには、きちんと取り決め通り、年貢を取り立てねばならぬのだ」


「兄上らしいことだ」
話が終わると、叔父は静かに目を閉じた。
王女は、まだ両手を握り合わせたまま、叫んだ。
「本当に、シェメウは聞き入れてくれないのでしょうか?
 父がやらないと言うなら、私が自ら親書をしたためてもよいのです!」
「いや…」
叔父は首を横に振った。
「残念だが、その部分は兄上の言うとおりだ。
 シェメウに申し入れをすることはできない」
「なぜです!」
「仮に、シェメウに献上品を届けなかったとしよう。
 それは略奪のきっかけを与える」
叔父は、書棚の中から、パピルスの巻き物を一本引き出した。
メル・レー・トゥの前で広げてみせる。
地図だ。
パピルスを真っ二つに分断して、ハピの流れが堂々と描かれている。
「メルがどこかはわかっているね?」
叔父はウネベト女史よりもずっと優しくたずねた。
王女は、ハピの隣にあるメルの塔を象った文字を指した。
セクメトも、わからないくせに地図をのぞき込んで鼻をフンフン鳴らす。
「では、シェメウは?」
王女は、ハピの河からだいぶん離れた場所に、糸巻きを象った文字を見つけた。
メルの国からは西の方角にある。
叔父はうなずき、メル・レー・トゥの指のそばに人指し指を立てた。
そこから、ハピの河まで線を引くように指先を移した。
「ハピからは、こんなに遠い」
叔父は地図から視線を外し、少しあごを上げた。
詩を暗唱する。
「クムトは、ハピの賜物。
 麦はハピのほとりに実り、鳥はハピのもとに歌う。
 ハピこそ命」
叔父は視線を王女に戻した。
「シェメウには、作物はほとんど実らない。
 メルからの献上品で成り立っていると言っても過言ではない。
 かの国の財産は武力。
 君の祖父の祖父…ヘセティ一世と取り引きする前は、他国から略奪を繰り返すことによって、存続していたのだ。
 もし、献上品が滞れば、シェメウに略奪のきっかけを与えることになる」
叔父の顔が厳しくなった。
「いや、それだけじゃない。
 よしんば、シェメウが武力に訴えなかったとしても。
 君が…」
叔父は、荒々しく地図を放り投げた。
パピルスがばさりと音を立てて、床に落ちる。
叔父は両手で額と目を覆った。
自らの顔に爪を立てる。
「シェメウに弱みを見せれば、嫁いだ後の君が辛くなる。
 君は、人質だ。
 身代金の少ない人質が、優遇されるだろうか?」
王女は絶句した。
確かに、その通りだ。
だから、父は私の願いを聞いてくれなかったのか?
私のために…
叔父は、地図を踏みつけて椅子から立ち上がった。
東側の窓の前へ行く。
王女は、椅子に座ったまま、叔父のやせた背中を見つめた。
震えている。
「…兄上は弱虫だ」
低いが、はっきりとした言葉が、王女の耳に届いた。
その声のあまりの冷たさに、王女はぞくりとした。
氷の塊を首筋に押しつけられたように、身をすくめる。
セクメトが鋭く耳を動かした。
沈黙。
やがて、表から微かな葉擦れの音が入り込んできた。
叔父がくるりと振り返る。
頬骨の高い学者風の顔には、穏やかな微笑が戻っていた。
「もう、部屋に戻った方がいいね」
そっと王女の頭に手を乗せて言う。
「必ず、なんとかなる日が来る」
「いつ…?」
王女は叔父の顔を見上げた。
「約束はできない。
 でも、いつか」
「待ってはいられないんです!」
叔父は、メル・レー・トゥから離れて、扉を開けた。
「今夜は、もうお帰り」
と、微笑む。
しかし、笑っているのは口元だけだ。
苦痛に耐えるように、まぶたを半分閉じかけて、また開いた。
王女は何も言えなくなった。
セクメトとふたり、黙って出て行くしかなかった。

*      *      *


第十回・終わり




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