吐息 Shotr Stories
 [ 第十一回 ]


八方ふさがり。
この言葉の意味を、これほど強く噛みしめたことはない。
父上も叔父上も、農民たちを助けようとはしてくれなかった。
今この瞬間にも、人々は飢え、苦しんでいるのに。

王女は、意味もなく中庭を歩き回った。
農民たちの前で、胸を張って約束した自分が恥ずかしくなる。
…私に任せよ!
 必ず、そなたたちを困窮から救ってみせる!
胸の中に自分の声が恨めしく蘇った。
…いいのかよ、あんなこと、言っちゃってさァ。
セケムの言葉も聞こえてくる。
王女は耳をふさいだ。
「愚か者だ、私は!」
ついに、立っていることさえ出来なくなって、しゃがみこむ。
セクメトが心配そうに鼻面を寄せてきた。
恥ずかしい。
情けない。
消えてしまいたい。
セクメトのヒゲが頬にちくちくする。
肉球が肩をこする。
ざらざらの舌に、こめかみの辺りを櫛梳かれた。
「セクメト…」
王女は雌ライオンの首にしがみついた。
他に、頼るものはなかった。

ふいに、カスタネットの音がした。
それは叱咤するような響きで、心を打つ。
王女はハッと顔を上げ、音の方を見た。
正面の蓮池に、大きな黒朱鷺がいる。
三日月型のくちばしが、ゆらりゆらり。
純白の羽と胴が銀色に輝いている。
黒い風切り羽が、王女に向けて開かれた。

…メル・レー・トゥ。

名前を呼ばれたような気がした。
だが、人間の言葉を発せるものは、この近くにはいない。
王女は朱鷺を見つめた。

…おいで。

男の声とも女の声ともつかない。
いや、音としての声はどこにもない。
王女は、ふと、叔父が話してくれた物語を思い出した。

英雄王ハモンは、メルの塔に葬られた。
人々は、副葬品として、たくさんの財宝を…

…財宝?
王女は、びくりとする。
そうだ。
ハモン王は、たくさんの財宝と共に、メルの塔に葬られたのだ。
もし、伝説が本当なら…

朱鷺が啼いた。
カスタネットの鋭い音。
まるで「その通り」と、うなずいているように。
朱鷺は、蓮池の水を散らして飛び立った。
長い首を緩やかに曲げて、王女の方を振り返る。
そのまま、西の空へ舞った。

王女は、思わず、朱鷺を追った。
だが、宮殿を囲む壁に阻まれて、それ以上進むことができなくなってしまう。
朱鷺は悠然と壁を飛び越え、メルの塔の方へ飛び去った。
黒い三角形の影へ溶け込むように、消えてしまう。
王女は両手を拳にして、壁を叩いた。
セクメトも同じように、前足の爪を日干しレンガの継ぎ目に引っ掛けて立ち上がった。
王女が横を向くと、セクメトと目があった。
「メルへ、行く?」
雌ライオンは、まばたきで返事をした。
もはや、他の方法は思いつかない。
メルの塔に入り、眠っている財宝を取ってこよう。

王女は心を決めた。

      *      *      *
早朝。
メル・レー・トゥはセクメトを連れて、宮殿の通用門へ向かった。
重たいカツラはかぶらない。
うっとうしい長い髪は、軽業師のようにきりりと結い上げた。
目の周りに虫よけのマスカラだけを巡らせ、武術稽古の時と同じかっこうをする。
胸とあばらを亜麻布で固く巻き、腰の周りには短いロインクロスをつけた。
手首と足首は、拳闘選手よろしく革紐を巻いて補強する。
帯には切っ先の曲がった短刀を挟んだ。

セクメトだけを連れて、自室から滑り出る。
東の空がようやく茜色に染まりかけていた。
辺りは静まり返っている。
足音を忍ばせて通用門の方へ行くと、働き者の召し使いたちが、もう仕事を始めていた。
門の横には、たくさんの籠が並べられている。
どれにも、こぼれ落ちそうに布が積んであった。
洗濯物である。
二十人ほどの人足たちが、一列に並べられ、監督からの注意を受けていた。
これからハピの河まで運んで、洗うのだろう。
王女とセクメトは、近くの建物の陰に隠れた。
厨房にもって行く食料を一時置いておくところだ。
壁際に、空っぽのビール壷がたくさん立てかけられている。
尖った底の部分は地面に埋められていない。
あのへんに潜んで、飛び出す機会をうかがおう…

「なにしてんの?」
トボケた声が頭の上で響いた。
王女は身を縮め、セクメトと抱き合った。
体勢を崩して壷のひとつにぶつかる。
「おっと」
ひょろ長い腕が、倒れかけた壷を元に戻した。
王女の頭のすぐ側に、細長い顔がある。
思い切り左右に引っ張った、大きな口。
ボサボサに伸びきった髪の毛。
「セ…!」
王女は、思わず高い声を上げた。
慌てて自分の口をおさえる。
今度は小さな声で、
「…セケム」
セケムは口の端を面白そうにつり上げた。
尖った犬歯が見える。
「おはよう、姫様。
 勇ましいかっこうだね」
「なぜ、こんなところに?」
「お仕事」
「なんの仕事だ?」
「見りゃわかるでしょ。お洗濯に行くところ」
「そなた、ここで働いていたのか…」
「今日は、たまたまね。
 ノラ犬は、いろんなお仕事しないと、ゴハンにありつけないの」
ふざけている。
よりによって、変なのに見つかってしまった。
「姫様こそ、なにしてんの?」
「私は…」
「かくれんぼ?」
セケムはからかうように、あごをしゃくりあげた。
「あっちへ行け。
 そなたがいると、見つかってしまう」
「ははあん」
セケムは全てを見透かすかのように目を細めた。
「父上様も、叔父上様も、アテになんなかったってわけだな?」
「黙れ!」
「図星だね」
抜け目ない青年は、ちらりと人がいる方を見やり、素早くしゃがみこんだ。
ビール壷の陰に身を隠す。
「また抜け出す気?」
「そなたには関係ない」
「やめといた方がいいと思うよ」
「私がやらなければ、農民たちが苦しみ続ける」
「ふうん」
セケムは鼻の頭をちょっとかいた。
あごを鎖骨につくまでひいて、上目使いに王女の顔をのぞき込む。
「で、作戦は?」
「メルの塔から財宝を持ち帰る」
大まじめに言いきる王女。
セケムは細い目を限界まで見開いた。
頭に手を突っ込んで、ボサボサの髪の毛をかき回す。
「あのさァ…わかってるとは思うんだけど」
わざとらしく肩を上下させて、ため息の演技をした。
「メルの塔はハモン王のお墓で、いろいろお宝が詰まってるって言われてる。
 でも、泥棒に備えて、罠がたくさん仕掛けられているんだよ?」
「何事にも困難はつきものだ」
「お宝を盗んだヤツには、呪いがかかるんだよ?」
「子供だましなことを言うな」
王女は口を尖らせた。
「よしんば死者が目覚めたとて、眠っているのは王家の先祖。
 子孫の私が頼めば、財宝の少しくらい、融通してくれるだろう」
とりすまして、鼻先を天に向ける。
セクメトも、マネして首を長く伸ばした。
セケムは耳の後ろ辺りをガリガリかいた。
「全く、無鉄砲というか…意地っ張りというか…」
ごちゃごちゃ言う。
「どォーしても、行くの?」
「行く」
王女は揺らがぬまなざしで、セケムをまっすぐに射た。
セケムは視線を逸らさずに受け止める。
珍しくふざけないで、太く濃い眉をぐっと寄せた。
眉間で一本の黒い線がつながる。
「…わかった」
がっちりしたあごを、ゆっくりと引いて、また戻す。
「そんなら、手伝ってやる!」
セケムは、急に身を翻して、手近なビール壷を持ち上げた。
ひょろひょろの腕のどこにそんな力があるのか。
人ひとりが楽に入れるような大きさの壷を、軽々と頭上で回す。
サイコロ賭博でも始めるかのように、壷の口を地面に向けた。
次の瞬間、王女の視界が真っ暗になる。
「な、なにをする…!」
王女は叫んだ。
自分の声がやたらと反響する。
ビールのにおいが立ちこめている。
小柄な体は、すっぽりと壷の中に閉じ込められていた。
外からセケムの声がする。
「心配すんなよ。バッチリ、メルの塔まで連れてってやるからさ」

      *      *      *


第十一回・終わり




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