吐息 Shotr Stories
 [ 第十三回 ]


謁見の間は凍りついていた。
常夏のメルの国には、ふさわしくない表現かもしれないが。
上質な花崗岩で作られ、磨き抜かれた広間の壁が氷のように見える。
南方の霊峰には、こんな場所があると聞く。
体毛の長い象や牙の長い豹が、氷柱の中に閉じ込められているとか。
直立不動で並ぶ家臣たちが、そんな動物たちになってしまったかに思えた。
ヘセティ四世は、玉座のひじ掛けにもたれる。
もの憂げな表情を装って、広間の中央を見下ろした。
冷気の元凶、シェメウの使者が不敵に立っている。
王の前だというのに、ひざまずきもしない。
使者の杖をこれ見よがしに床に突き立て、傲然と頭を上げている。
これがそのまま、メルとシェメウの関係なのだ。

「ジェア王には、いかなるご用向きかな」
ヘセティ四世は抑揚のない声で問うた。
鷹揚に、上品に。そして、威厳を失わず。
文化の高いメルにとって、シェメウなぞは見下すべき相手なのだ。
軍事国家などと言えば聞こえはいいが、本質は野蛮なケンカ好きではないか。
暴力で他国を制圧しようとするヤクザ者だ。
そんな国の下風に立つことはない。
しかし、上品さや格式よりも、腕力の方がものを言うのも事実だった。
シェメウの使者は、激しく杖を打ち下ろし、床を鳴らした。
「メル王に申し上げる!」
声と杖の音が重なって、花崗岩の壁に跳ね返った。
凍った空気にひびが入る。
「大麦、小麦が期日通りに届かぬが、いかなる了見か?」
はじめから、ケンカ腰の激しい口調だ。
諸侯たちが、びくりと肩をすくめる。
ヘセティ四世は調えられた指先を伸ばし、あくびでもこらえるように、口を押さえた。
「本年は、刈り入れの作業が遅れており、運搬が遅くなっておる」
「遅くなっている?」
使者は王の言葉尻をとらえた。
「では、いつ支払われるのか」
「そう焦らずともよろしい」
ヘセティ四世は左右にいる書記たちを目で呼び寄せた。
王笏で口もとを隠し、低く短く言う。
「ケペルの厨子をもて」
書記たちの顔色が変わった。
「しかし、あの厨子は…」
「よい。早くもて」
書記たちは胸に手を当てておじぎし、あわてて謁見の間から走り出ていった。
サンダルのパタパタいう音が、次第に遠ざかる。
王は微笑んだ。
「時に、ジェア王には、ご健勝であらせらるかな?」
頬杖をついて、ゆっくりと尋ねる。
使者は顎をもちあげた。
「すこぶる、ご健康であらせらる」
自分の主のことを言うのに、謙譲語も使わない。
諸侯は色めき立ったが、王は頬杖をついたまま、
「それはなにより」
と、鷹揚な態度を崩さずにいた。
そのうち、ふたりの書記たちが戻ってきた。
肩に黄金の厨子を担ぎ上げている。
赤ん坊の寝台ほどのそれは、黄金に輝いて壁にも床にも黄色い光を落としていた。
蓋の中央には、大きな瑠璃のケペル(甲虫)がはめ込まれている。
書記たちは、しずしずと厨子を運んできた。
紛れもない純金の輝きが満座の者を包み込む。
使者は目を見張った。
「これは…」
声も出ない、といったていだ。
それもそのはず。
この厨子は、何百年も前から王家に伝わる奇跡の宝物なのだ。
名工イムヘテプの手になる品で、全体が箔ではなく純金で作られ、中央に象眼されたケペルばかりではなく、数々の宝玉が夜空の星のようにちりばめられて…いや、この際、そんなことはどうでもよい。
重要なのは、以前からジェア王がこれを欲しがっていたということなのだ。
「ジェア王の健康と平安を祈って。
 我が友情の証に、これを進呈する」
ヘセティ四世は、菓子でもくれてやるような調子で、おっとりと言い放った。
シェメウの使者は、がくりと厨子の前にひざまずいた。
確かめるように手を伸ばし、おそれて引っ込める。
ヘセティ四世は、誰にも聞こえないように、ほうと息をついた。
王者の微笑みを投げかける。
汗でぬれた王笏を握り直し、優雅に王座から立ち上がった。
長いロインクロスを鮮やかにさばいて、きびすを返す。
書記たちが玉座の後ろの天幕を開いた。
これで終わった。
気前のよいところを見せて、ジェアの機嫌を取っておけばよい。
後で、備蓄しておいた昨年の麦を送ろう。
新しいものではないし量も不足しているが、また二つ三つ宝物をつけてやれば…
「しばし!」
退座しようとしたヘセティ四世の背中に、鋭い声が投げかけられた。
王は、右手だけで緊張し、ゆったりとした仕草でふりかえる。
シェメウの使者が両足を踏ん張って立ちあがった。
「陛下からのことづけは、まだ全部話しておらぬ」
「それは、それは」
ヘセティ四世は、努めて気品ある笑顔を向けた。
使者は書いてあるものを読み上げる調子で言う。
「規定の麦が届かぬ場合には、等価の物資を要求する」
欲深いことだ。
しかし、この程度の要求なら、計算の内。
王は、にこやかに、
「よろしい。
 もし、不都合があった場合には、埋め合わせとして黄金を…」
「いや、黄金などいらぬ」
使者は杖を打ち鳴らした。
「奴隷をいただく。
 …どうせ、満足な収穫もあげられぬ農民たちだ。
 百人や二百人、連れていっても差し障りはなかろう」
ヘセティ四世は王笏を取り落とした。

      *      *      *

「うまいか。ようく味わえよ。
 姉ちゃんには、一番いいもんをやるんだからな」
セケムは子牛の腿肉をつかんで、セクメトに食べさせた。
雌ライオンは猫のようにじゃれつきながら、肉をかじった。
「ははは、おい、俺の手まで食うなよ」
セケムとセクメトは砂の上に転がってふざけあった。

王女は、メルの塔の土台に座って、その様子を見ていた。
両膝を抱えて。
すでに日は沈み、涼しいというよりは肌寒い風が吹き抜けて行く。
セケムが作った小さなたき火が、橇の近くで燃えていた。
その側に寄る気にもならず、王女は震えている。
石の壁にもたれると、背中がひやりとした。
しばらく前まで、燃えるように熱かったのに。
砂漠は、日が沈むと急に冷え込む。
王女は自分の腕に顔をうずめた。

「お姫様」
セケムのとぼけた声が、頭の上から落ちてきた。
この男、いつの間に、ここまで近づいたのか。
顔を上げると、目の前に小さな皮袋があった。
乾したナツメヤシの黒い実がいくつも入っている。
セケムは袋に手を突っ込んで、数粒を自分の口の中へほうり込んだ。
片方の頬を膨らませて、もぐもぐやる。
ぷっ、と種を吐き出した。
「けっこう、うまいよ」
また、袋に手を突っ込む。
今度は、一粒、こちらに差し出してくる。
王女はメルにもたれて、体を後ろに引いた。
「…食べたくないの?」
セケムは、行き場を失ったナツメヤシを、自分の口に入れた。
王女の隣に腰を下ろす。
種がセクメトの方へと飛んでいった。
雌ライオンは、子牛の骨で遊んでいる。
「肉じゃなくて不満?」
わきから、セケムが問いかけた。
王女は首を横に振る。
「…セクメトは、肉しか食べられぬ」
「わかってるじゃないの」
セケムは大きな手のひらを皿にして、ナツメヤシの実を王女の鼻先に突き出した。
「商人たちは、コイツだけで何日も砂漠を渡る。
 こんなちっちゃな実でも、馬鹿にしたもんじゃないんだぜ」
王女は無言でその手を押し戻した。
セケムの言いたいことはわかる。
でも、食べる気にならないのだ。
疲れてしまった。
一日中、壁を叩き続けて。
何が得られた?
絶望だけではないか。
「そんなにうまくいくもんじゃなかったろ?」
セケムの声が急に柔らかくなった。
心を見透かされたような気がして、王女は声の方に顔を向けた。
セケムは、心なしか眉尻を下げ、大きな口の端を軽く上げている。
叔父上に似ているような、父上に似ているような。
低く静かな声で。
「よく、がんばったさ」
そういわれて、王女は、両目の中で何かが膨れ上がるのを感じた。
弾けるように立ち上がって、背を向ける。
そのまま、壁に沿って走りだした。
「帰ろう、姫様」
セケムが呼んだ。
「いやだ!」
王女は叫んだ。
我ながら、駄々っ子のようだと思う。
けれど、どうにもならない。
月光に白く光り始めたメルの壁が滲んで見える。
誰にも顔を見られたくなくて、走った。
土台の上をぐるりと回って、月光の届かない壁まで逃げた。

ふいに、カスタネットの音がした。
王女は、立ち止まって空を見上げた。
白銀色の鳥が、音もなく舞い降りてくる。
長い首と脚、風切り羽、尾だけが黒い。
朱鷺だ。
いつも、目の前に現れては消える朱鷺だ。
王女は思わず膝をついた。
朱鷺はメルの土台の上に降り立ち、三日月型の長いくちばしをゆらりと動かした。
大きな風切り羽を広げて、いざなう。
王女は誘われるままに、朱鷺の方へ駆けた。
王宮で会ったときとは違って、池にもベンチにも遮られない。
王女と朱鷺は、まっすぐに向かい合った。
朱鷺は、ゆっくりと羽をたたみ、王女を見つめる。
そのまま長い首をひねって、真横にある石を軽くつついた。
銀色の花崗岩が、ぼおっと光る。
同時に、朱鷺の黒い瞳が金色に輝いた。
誰のものでもない声が響く。

…おいで。

男でも女でもない。
音として発声されるものでもない。
しかし、王女の耳には、はっきりと聞こえた。
王宮の蓮池で聞いたのと、同じ声だ。
朱鷺は、大きく翼を広げ、羽ばたいた。
「待って!」
王女は手を伸ばして追いかけようとした。
朱鷺は銀色の斜面を駆け登るように舞い上がった。



  第十三回・終わり


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