剣 Shotr Stories
 [ 第三回 ]

メルの王宮は大変な騒ぎに包まれた。
家具商人、宝石商人、色とりどりの反物を抱えた隊商たちが、ひっきりなしに流れ込んでくる。
王女メル・レー・トゥは十人以上もの侍女たちに囲まれ、衣装部屋にかつぎ込まれた。
金糸銀糸で刺繍を施した薄もの、宝石をちりばめた帯、黄金の冠や、おびただしい数の腕輪、足輪……
それらをとっかえひっかえ身につけられた。
まるで着せ替え人形だ。
それだけではない。
香料を満たした風呂につけられ、赤や緑の顔料を塗りたくられる。
ただ、メルの伝統であるカツラだけは、つけられなかった。
女童の象徴であるお下げ髪がほどかれ、たっぷりと香油をつけて梳られる。
まっすぐな黒髪が肩から背中へ、背中から帯へと垂らされた。
夜の帳を星が飾るように、黄金と宝石が髪にちりばめられた。

全ては、シェメウからの親書が始まりだった。
いつか来るとはわかっていたものの、誰もが考えないようにしていた、第一王女の宿命である。
シェメウ王ジェアは、メル・レー・トゥの輿入れを促してきた。
ヘセティ一世の時代に結ばれた条約である。
メルの第一王女は、シェメウに嫁ぐ。
そこで人質になって、軍事力に長けたシェメウからの侵略を防ぐのだ。

輿入れの準備は、あれよという間に進められた。
時間は矢のように過ぎ去って、メルにいられる日もみるみる少なくなって行く。
とうとう期日が訪れて、メル・レー・トゥは花嫁衣装を着せられた。
住み慣れた宮殿に別れを告げる時がやってきたのだ。

準備が調った時、ウネベトがゆっくりと王女の部屋に入ってきた。
太った女教師は、目を真っ赤に泣きはらしていた。
勉強をサボる王女を叱りつけていた、ヒステリックな先生は、もうどこにもいない。
「……広間で、陛下がお待ちでございます」
ウネベトは赤い目ににじむ涙をしきりと拭ったが、後から後からあふれてきて、とりとめがない。
王女は女教師の肩をそっと抱いた。
「行こう」
不思議と、涙は出てこなかった。
メル・レー・トゥは、ウネベトを抱えるようにして、広間へ向かった。

太い柱に支えられた石造りの大広間には、百官が並んでいた。
端から端まで、武官と文官で埋め尽くされている。
玉座のまわりには、王家の一族がそろっていた。
現在の王妃と、小さな弟、乳母に抱かれた妹、四人の叔母たち……
公の場にはめったに顔を出さないデペイ叔父も、並んでいる。
優しい叔父は頭を天井に向け、鋭い瞳で梁の辺りをにらんでいた。
王女の方を見ようともしない。
薄い唇をきつく引き締めて、身じろぎもせず立ちつくしている。
その表情は、今までに見たことがないくらい険しい。
これが、最後になるかもしれないのだから……
叔父上には、優しく微笑んでほしかったのに。
いつもの暖かなまなざしを思い出して、王女は急に悲しくなった。
泣きたい気持ちがこみあげてきたが、王女の誇りが涙を押しとどめた。
玉座の前に立っている父の前へ、まっすぐに歩いて行く。
百官の間から「ほう……」とため息が起こった。
玉座の前まで来ると、父が両手を広げた。

「メル・レー・トゥ」
父王ヘセティ四世は、箱形の付け髭をつけ、王家の象徴である黄金のコブラを飾ったメネス(頭巾)をかぶって、正装している。
精悍な腕と胸が、メル・レー・トゥを抱きしめた。
父は、王女の髪に唇をつけ、誰にも聞こえないような小さい声でささやいた。
「王たるの務めは、民たちを守ること。
 戦は民を傷つける。
 争いを避け、自らを傷つけても、民を守るのが王」
父の腕にぐっと力がこもる。
……許せ、娘よ。
声にならない想いが、メル・レー・トゥの心臓を打った。
それは本当に音声にはなっていなかったが、父の心がすべて伝わってきたような気がした。
おもわず見上げると、父の顔は王の顔に戻っていた。
ヘセティ四世は、いつもの威厳ある声で、メル・レー・トゥに言った。
「皆に、別れを告げるがよい」
大きな手が、メル・レー・トゥの体を広間の正面に向き直らせる。
王女は、幾段か高い場所から、人々を見渡した。
大臣も将軍も神妙な顔をしている。
しんと静まり返って、音もない。
まるで誰かの死を悼んでいるようだ。
メル・レー・トゥは王女としての責任を感じた。
こんなにも自分を想ってくれる人々に、心配をかけることはできない。
安心して、見送ってもらいたい……
メルの第一王女は、毅然とした微笑みを広間に向けた。
「行って来る」
王女の声で、短く宣言する。
自分でも驚くほど涼しい声が出て、弓弦をはじくように、凍った空気を打った。
居並ぶ人々の緊張が、少しだけゆるむ。
幼い弟が、列から外れて、王女の前へ走り出た。
「どこへ行くの?」
腹違いの弟は、幼すぎて、意味がわからないのだろう。
王妃があわてて、王子を列に引き戻そうとした。
王女は笑って、王妃を押しとどめた。
膝をついて、弟を抱く。
「お姉さまは、遠くへ行くの」
「ぼくも一緒に行くよ」
「それは、だめ。
 お姉さまだけが、呼ばれているの。
 あなたは、メルの王子。
 この国をしっかり守ってね」
王女が立ち上がると、宰相が両腕を上げた。
「王女様、万歳!」
宰相の叫びに続いて、百官も声を上げる。
「万歳! 万歳!」
広間を揺るがす合唱が、いつまでも続いた。

      *      *      *

セケムは安物のパンをかじりながら、通りを眺めていた。
笛や太鼓がうるさくて、耳に障る。
王宮の前から城門の外まで、人々があふれていた。
通り沿いの屋根から見下ろすと、アリがうごめいているように見える。
長い行列が、眼下を進んで行く。
列の中央には、ひときわ派手に飾り立てた輿があった。
真っ赤な天蓋から分厚い幕が四方に垂れていて、中をうかがうことはできない。
その隣には寄り添うように、雌ライオンが従っている。

セケムはパンを食いちぎろうとしたが、堅くてなかなかうまくいかない。
トレードマークの犬歯をつきたてる。
頬を歪めながら、無理矢理引きちぎった。
全く、食い物がまずいと機嫌が悪くなるってもんだ……

鳴り物の合間には、人々の泣き声がわきおこる。
誰もが、自分たちの聖女をシェメウに取られたくなくて、嘆いているのだ。
今、国を出ようとしているのはただの姫君ではない。
メルを救う奇跡を起こした守り神だ。
セケムはパンを飲み下し、
「関係ないね……」
とつぶやいてみた。
妙に、いまいましい気分が腹の中でうずまいている。
腹立たしさをパンにぶつけた。
がちり、と堅いものが犬歯に当たる。
「……ちくしょう……石が入ってやがる!」
ぷっ、と盛大な音を立てて、口の中の邪魔ものを吐き出した。
パンに混ざっていたにしてはかなり大きい砂利が出てきた。
「ちっ」
セケムは、パンを投げた。
歯形のついた堅いパンが、人混みの中に落ちて行く。
誰かの頭に当たった。
「馬鹿野郎!」
パンをぶつけられた男が、こちらを向いて怒鳴る。
「馬鹿野郎!」
セケムも怒鳴り返した。
大声を出したら、ヤケクソになってきた。
「くたばっちまえ!」
めちゃくちゃに、わめき散らす。
そのまま、人混みの中に飛び込んだ。

      *      *      *

王女は、輿に揺られながら、目を閉じた。
笛と太鼓とシストラム(がらがら)の音。
人々の嘆く声。
泣き声もあれば、怒声もある。
都を出るまでは、ごちゃまぜの喧噪が王女を包んでいた。
だがそれも、やがて小さくなり、聞こえなくなる。
後に残るのは、ただ粛々と進む行列の足音だけ。
輿を取り囲む騎馬兵の蹄音と、セクメトが砂を蹴るかすかな音がする。
単調な揺れに体を任せていると、次第にまどろみが訪れてきた。
夢とも現実ともつかない中に、過去の風景が押し寄せる。
もう二度と戻れないと思うと、寂しさがこみ上げてきた。
王女としての緊張が解けて、メル・レー・トゥは十四歳の少女になる。
未知の国へ、それも歓迎されないかもしれない場所へ赴くことが、恐ろしく思えてきた。
もはや、暖かく包んでくれた人々は遠く離れ行くのだ。
この輿が進む一歩ごとに。

別れの時。
父上は最後まで、公の顔をしていた。
メルの王として、寸分乱れない姿だった。
だが、抱きしめられたとき、幼い頃と同じにおいとぬくもりを感じた。
お父さまは、腕と胸で、愛情を示してくれたのだと思う。
ウネベトのように、泣いたりはしなかったけれど。

それにしても叔父上は、なぜ、あんなに怖い顔をしていたのだろう。
どうして、父上のように抱いてくれなかったのかしら。
叔父上には「ありがとう」と言ってお別れしたかった。
あの、パピルスと粘土板が四方を囲む図書館で、おしゃべりするのが一番楽しかった。
叔父上のお話は、いつもおもしろくて、ためになって……

ふと、メル・レー・トゥは手の甲に暖かいものが落ちたのを感じて、目を開けた。
両手にふたつの小さな雫がはじけている。
それを見て、自分が涙を流していたことに気づいた。
ジェア王の親書が届いてから、ずっと泣かなかったのに。
なぜか、押しとどめていた涙なのに。
どうして今頃?

王女は、輿を担ぐ四人の力士に聞こえないよう、衣装のうすぎぬを噛んだ。
後から後から涙が出てきて、どうしようもない。
天蓋の支柱にもたれると、力士たちの足音に混ざって、ライオンの足音がする。
……そうだ、私には、セクメトがいた。
セクメトだけは、どこまでもついてきてくれる。
どんな時も一緒だから、寂しく思うことはない……

四本の足が規則正しく砂を踏む音を聞くと、心が落ち着いてきた。
再び、まどろみが訪れる。
意識が遠のいた時……

ふいに、輿が止まった。
力士たちの足音が消える。
セクメトが本気のうなりをあげるのが聞こえた。
「何者だ!」
護衛の兵士たちが叫ぶ。
荒々しい蹄の音と金属がふれあう音に、あたりを取り囲まれた。
王女は天蓋の支柱を強くつかむ。
輿が大きく揺れた。
剣の鳴る音、力士たちの断末魔。
王女の輿は担ぎ手を失って、砂にめり込んだ。

「メル・レー・トゥ様!」
男の腕が天蓋を荒々しく取り払う。
王女は、黒く光る金属の鎧をつけた兵士たちを見た。
それはメルの国では珍しい鉄の鎧だった。

怒り狂ったセクメトが鉄鎧の兵士に襲いかかった。
別の兵士が棍棒でセクメトの後頭部を殴る。
雌ライオンは、ぎゃっと悲鳴をあげて王女の前に倒れた。
「セクメト!」
王女は傷ついた友にしがみついた。
「我々は味方でございます」
鉄鎧の兵士たちは、奇妙なことを言った。
供の者たちを襲っておいて、味方もないだろう。
王女は兵士たちをにらんだ。
「なぜ、こんなことをする!」
「ご説明は、後でいたします!」
セクメトから引き剥がされて、馬上にくくりつけられる。
「姫様!」
生き残った供の者たちが叫ぶ。
「放せ!」
王女は暴れた。
だが、走る馬の足は速く、体を締め付ける綱は堅い。
メル・レー・トゥは、あらがうこともできないまま、どこともしれない場所へ運ばれていった。
                        

第三回・終わり



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