剣 Shotr Stories
 [ 第五回 ]

セケムは、油皿に小さな炎をともし、セクメトを追いかけて砂漠を歩いていた。
月のない晩に、人間の視力はあまりアテにならない。
頼りはライオンの夜目と狩猟本能だ。
セケムは、花嫁行列を荒らした蹄跡を見つけ、それを追うよう、セクメトに言った。
利口な雌ライオンはすぐに理解し、先に立って追跡を開始した。
黒い砂漠は、果てしなく続くように思える。
東西南北はおろか、上下がひっくり返ったとしても気がつくまい。
ともすると、このまま闇の中に迷い込んでしまうのではないだろうか。
セケムは、人間の本能から、恐怖を感じた。
だが、獣の本能を持つセクメトの足取りは揺るがない。
百獣の女王は、小さな油皿の炎だけで、しっかりと蹄跡をたどる。

やがて、闇は開けた。
前方に小さな灯りが点々とまたたいている。
セケムは時間の感覚を失いかけていたが、まだ夜が明けないところを見ると、そんなに長い間歩いたわけでもないらしい。
「野営かな?」
ふと立ち止まると、柔らかな風が吹いてくる。
セクメトが鼻を鳴らした。
確かに、風のにおいが違っている。
耳をすますと、水の音がした。
「ハピか?」

セクメトは蹄跡を追って、灯りの方にどんどん歩いて行く。
セケムは急いで追いかけた。
足下の砂がだんだん湿り気を帯びてくる。
砂というより、土に近くなってきた。
「ここは……」
セケムは、あわてて油皿の炎を吹き消した。
体を地面に伏せ、セクメトの頭もおさえる。
そうか!
姫様が奇跡を起こした村だ……。

セクメトは、セケムのマネをするように、体を低くした。
椰子の葉陰に、ちらちらと人影が見える。
人影は松明の他に槍を持っているようだ。
黒いシルエットは、生身の人間よりもだいぶがっちりと太って見える。
それが鎧だと気づくのに、時間は要らなかった。
見張りが立ってやがる。

セケムは地面を泳ぐように這いながら、じりじりと進んだ。
泥や牛の糞で壁を固めた四角い家並みが、黒々と浮かぶ。
そのあちこちにいくつもの光が瞬く。
全部、兵士だ。
みんな重そうな足取りで歩いている。
衛兵が言い残した、鉄鎧の男たちだ。
姫様は、ここにいる!

セケムはセクメトを見た。
雌ライオンも同じようにこちらを見ている。
金色の瞳が「攻め込もうか?」と問うた。
セケムは首を横に振る。
敵が多すぎる。
ガラガラ蛇じゃあるまいし、地面を這いながら姫様を捜すことなど出来はしない。
セケムは、セクメトの頭をそっと撫でた。
今、俺にできることは?
どうしたら、姫様を助けられる?
いくつもの考えが嵐のように浮かんでは消えた。
目を閉じる。

次に目を開けた時、考えはまとまった。
セクメトが金色の瞳で答えを急かす。
セケムは細い目をゆっくりと瞬いて返事した。
……ここで待ってな、姉ちゃん。

雌ライオンは同じように瞬きしてうなずいた。

*      *      *

王女は、パンの焼ける香ばしいにおいで目が覚めた。
子供たちがアヒルを追いかけているのだろうか。
ぐわぐわというけたたましい鳴き声と、楽しげな笑い声、軽やかな足音が聞こえてくる。
いたずら小僧を叱りつけるおかみさんたちの怒鳴り声も、なぜだか暖かい。
心地よくて、王女は目を閉じたまま、音とにおいを楽しんだ。

にわかに、こんなことをしている場合じゃないと気づいて、跳ね起きる。
泥壁で囲まれた四角い家の中。
天蓋のついていない寝台の横に、真新しい麻の服が置いてある。
王女は少し躊躇したが、すぐにその服を着た。
たたんであった時にはよくわからなかったが、こんな農村でどうやって用意したのかと思えるほど、豪奢な刺繍が施してある。
これで化粧をすれば、王宮にいる時となんら変わりない服装だ。
ふと見れば、近くの卓に、ごていねいにもアイシャドウのパレットと銅の鏡が置いてある。
よく練りこまれた孔雀石の粉は、ずいぶん上等だ。

「おっひめっさまあ〜!」
子供の弾んだ声がした。
パピルスでできた扉が勢いよく開いて、市場で出会った男の子が飛び込んでくる。
イチジクの実をいっぱい抱えている。
「おいらが取ってきたんだよ!」
無邪気な笑顔に、王女も思わず笑ってしまう。
「ワジェ!」
男の子の後から、おかみさんの怒鳴り声が追いかけてきた。
「いっけね、母ちゃんだ!」
男の子は肩をすくめた。
この子はワジェというのか。
そう言えば、初めて名前がわかったことになる。
ワジェは片手を口に当てて、声をひそめた。
「母ちゃんがさ、お姫さまに勝手に近づいちゃダメだって言うんだよ。
 だから、またね」
ぺろりと舌を出すと、持ってきたイチジクをパレットの置いてある卓の上にぶちまけた。
いくつかが地面に転がり落ちる。
ワジェはそんなことも気にせず、つむじ風のように飛び出していった。
相変わらず、足が速い。
「お待ち、このいたずら小僧!」
おかみさんのどなり声がまた響く。
なんだかウネベトを思い出してしまった。

王女が落ちたイチジクを拾おうとしゃがんだ時、
「おはようございます、メル・レー・トゥさま」
と、とりつくろった声がした。
ワジェを叱りつけたのと同じ声だ。
さては、あの子の母親か、と思うと、果たしてそっくりな、目の大きいおかみさんが現れた。
パンと牛乳とアヒルの肉が載った皿を持っている。
おかみさんは卓のそばに近づいて、
「あらま!」
と声を上げた。
「このイチジクは……?」
置きそびれた皿を頭の上に掲げて、困った顔をする。
「ワジェが持ってきてくれた」
王女は笑った。
「あの子ったら!
 粗相があってはならないと、さんざん言って聞かせましたのに。
 早速、こんな……」
王女はイチジクを集め、皿を置く場所をあけてやった。
おかみさんは「あら、まあ、あら」と連発しながら卓を調える。
それが終わると、王女のそばに椅子を持ってきて座った。
なんのつもりか、アヒルの腿をバラして、小皿の上に並べ始める。
肉のひとかけらを王女の口の前に差し伸べて、
「どうぞ、お口をお開けくださいませ」
と言った。

王女は思わず吹き出してしまった。
おかみさんは、とまどい顔で肉のやり場に困っている。
「なにか、ご無礼をいたしましたでしょうか……?」
「いや……心配には及ばない。
 食事くらい、自分でしよう」
「でも、あたしは姫さまのお世話をおおせつかりましたのでございます。
 この村では、王宮のようなおもてなしはできませんが、せめて、お側仕えの方々の代わりに……」
どうやら、召使いの仕事を勘違いしているらしい。
料理を運んだ後の召使いは、卓から離れるのが作法だ。
食べているところを見られては、味もわからなくなるではないか。
ましてや、食べ物をちぎって口まで運ばれては、とてもとても……。
しかし、おかみさんの人のよさそうな顔を見ていると、間違いを正す気にはなれなかった。
「よかったら、一緒に食べよう」
王女は誘った。
「でも、それでは……」
おかみさんはかしこまる。
「これだけの量を、私ひとりで食べられるわけがない」
そう、卓には力士が二人で食べるような量が載っている。
「王宮では、よく、侍女たちと食事をしているぞ。
 侍女たちは、たくさん食べるほど、ほめられる」
「そ、そうなんでございますか?」
「ウソではない」
ウソだけど。
「でしたら、遠慮なく!」
おかみさんは、無邪気に笑って肉に手を伸ばした。
王女は、ワジェの持ってきたイチジクをかじる。
みずみずしい甘さと酸っぱさが口の中に広がった。
心がなごんで、自分の置かれている状況を、忘れてしまいそうになった。
略奪された花嫁が、のんびりしていていいのだろうか?

「少し、聞きたいことがあるのだが」
王女は、何気なく会話を仕掛けた。
「なんでございましょう?」
おかみさんは食べ物で頬を膨らませながら、素直な顔で王女を見た。
「エク・エンとは、何者なのだ?」
昨夜、話もわからぬうちに、この家に連れてこられた。
疑問は、一晩の間、凍結したままだ。
おかみさんは答えるまでに少し間を置いて、首を傾げた。
「エク・エンさまは、王女さまをお救いするために来たのだとおっしゃいました。
 ヘセティ四世陛下は、王女さまをシェメウへやってしまわれる。
 だから、エク・エンさまがお救いするのだ、と。
 王女さまをお匿いするために、この村を選んだのだとおっしゃってました。
 なにしろ、この村は王女さまに救っていたただいた村でございますから。
 こうしてご恩返しできるのは、とてもうれしいことでございますわ」
おかみさんの笑顔は屈託ないが、話も当を得ない。
件の人物については、何も語られていないではないか。
「エク・エンに、会うことはできないか?」
「それが……、朝早くお出かけになってしまいました」
「出かけた?」
「はい、お供をつれて」
「どこへ?」
「それは……あたしなんぞには、わからないんでございます……」
おかみさんは食べていたパンを卓に置いてうつむいた。
眉を寄せて、今にも泣き出しそうだ。
質問しすぎたせいか。
「気にするな。
 ちょっと、世間話がしたかっただけだ」
王女は笑って見せた。
おかみさんは眉を開き、また人なつこい笑顔に戻った。

王女は、ワジェの持ってきたイチジク以外には手をつけず、肉やパンを全部残して、おかみさんに返した。
「子供たちに分けてあげなさい」
と言うと、おかみさんは大喜びで、皿を持って下がった。

結局、なにがなんだかわからない。
王女は寝台の上に乗り、泥壁の上方にあけられた小さな窓から外を見渡した。
なるほど、鉄の鎧を着た男たちが歩哨に立っている。
だが、それ以外は、なんとものどかな農村の風景だ。
王女は寝台から降りて扉に手をかけた。
軋むものの、パピルスの戸に鍵はかけられていない。
監禁されているわけでもないようだ。

王女はイチジクをもうひとつ取って、口へ運んだ。
そして、エク・エンと、どのように話をしようか考え始めた。


第五回・終わり/div>


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