剣 Shotr Stories
 [ 第九回 ]



王弟デペイは、青白い顔で机の前に座っていた。
両肘をつき、細い指を組み合わせた上に、あごを乗せている。
書記に化けた男は、パピルスの巻物を机の上に置いて、両手を太ももにぴったりとつけた。
直立不動のまま、机の前にいる。
「何があったのか?」
デペイは低く陰気な声で問う。
「はっ。
 大変、難しい問題であります」
男は口ごもった。
ロインクロスの帯につけた小さな袋から、陶片を取り出し、
「これを」
と、差し出した。
デペイは陶片を受け取る。
その表面にすばやく目を走らせると、音をたてて立ちあがった。
書記に化けた男が、びくりとして後ずさりする。
デペイは唇をふるわせ、陶片を握りしめた。
そのうち、男の視線に気づいて、陰気な表情に戻る。
ゆっくりと椅子に座りなおし、書き物机の天板に目を落とした。
「メル・レー・トゥが、逃げ出そうとした、と?」
「は、そのように報告されております」
「あれの好きなように、身の回りを調えてやらなかったのではないか?」
「いえ。
 殿下が落ち着かれるようにと、農民たちに世話をさせました。
 殿下は農民たちを愛しておいでですから……」
「食事は充分だったか?」
「王宮でのお食事と変わらぬよう、配慮いたしました。
 もっとも、肉類は必ずお残しになって、農民たちに下げていらっしゃいました」
「衣服は?」
「デペイ様がご用意くださったものを、お渡しいたしました。
 化粧品も同様でございます」
「水浴はさせたか?
 日に少なくとも三回以上、最高級の香油を使って」
「もちろんでございます。
 全て、おおせのままに」
「では、いったい、何が気に入らないのか?」
「それは……皆目……」
男が言いよどむと、長い沈黙の時間が始まった。
デペイは石像のように固まって、動かない。

重い空気に耐えられなくなった男が、軽く身震いした時、デペイはゆっくりと手を動かした。
男が持ってきたパピルスの巻物をつかみ、端のほうを少しちぎりとる。
机の上に転がっているパレットを引き寄せ、鵞鳥の羽で短い言葉を書き付けた。
無言のまま、パピルスの切れ端を男に手渡す。
その手をぞんざいに振って、
「下がれ」
と合図した。
男は大きく息をつき、胸に手を当てて、おじぎをした。
そして、そそくさと去っていった。


時が水のように流れた。
デペイという置き石を残して、時間は無為に過ぎ去った。
部屋に差し込む陽光が、だんだん細くなる。
デペイは、まばたきもせずにその動きを見ていた。
光は赤く燃えて、ついに消えた。

……ルジェト。
つぶやくつもりもなかったのに、言葉がこみ上げてくる。
石像のように固まったデペイの中で、時間が逆流した。

初めて彼女に会ったのは、大神官の館に招かれた時だった。
つまらない宴に無理矢理出席させられて、デペイは具合が悪くなっていた。
充満する酒の臭いがたまらない。
けたたましい笑い声で、頭が割れそうに痛む。
そんな中、澄んだ美しい声が宴の席に響いた。
「わたくし、みなさまにリュートをお聴かせしようと思うんですの」
デペイは、ふと顔を上げて声の方を見た。
童女の編み下げを頭の片側から垂らした娘が、微笑んでいる。
大神官の娘ルジェトだった。
隣に座っていた父親が、目尻を下げながら言った。
「これ、娘よ。
 そなたは稽古を始めたばかりではないか」
「でも、ご披露してみたいのですわ」
「そうは言うが、自分で調弦できるのかね?」
「ええと……」
大神官の娘は頬に指を当て、小首を傾げた。
その仕草があまりに可愛らしいので、一同がどっと笑った。
ルジェトは、ちょっと肩をすくめてから、
「ああ、いいことがありますわ!」
と、目を輝かせた。
「デペイ殿下にお手伝いいただけたらと思います」
ルジェトは、ガゼルのように軽やかな足取りで、こちらへやってきた。
有無を言わさずデペイの手を取って、
「殿下は音楽がとてもお得意と聞いております。
 どうぞ、わたくしの力になってくださいませんか?
 お父様を見返してやりたいんですの」
いたずらっぽい言葉。
満座はまた笑いに包まれる。
「では、リュートを取ってまいります。
 殿下、一番よいリュートを選んでくださいませ」
ルジェトは、あたふたするデペイを引っ張って、鮮やかに宴席から連れ出した。

外の空気を吸うと、デペイの頭痛は嘘のように止んだ。
ルジェトは静かな庭に案内してくれた。
少し前を歩いていたが、くるりと振り向いて、
「おかげんはいかがですか?」
と、たずねる。
マスカラで縁取られたアーモンド型の目が、こちらを見上げていた。
黒曜石のような瞳には、心配そうな色が浮かんでいる。
デペイは、
「ああ、うん……」
と、言葉にもならない返事をするので精一杯だった。
宴の場を壊すことなく、むしろ盛り上げながら、自分を連れだしてくれた娘の機転に感心していた。
いや、それよりも。
具合が悪いことを悟られまいと無表情を装っていたのに、それを見つけてくれた目ざとさに驚いていた。
「しばらく、ここでお休みください」
ルジェトは衣を翻して、その場から去って行く。
しばらくして、宴席の方からリュートの音が流れてきた。
その調べに乗せて、美しく澄んだ歌声が、デペイの耳に届いた。

それから。
デペイは何度か大神官の館をたずねた。
学問と研究を口実にして出かけるのだが、本当の目的は違う。
テラスでパピルスを広げながら、大神官と話していると、ルジェトの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
きゃあきゃあとふざける声がして、ひとりの子供がテラスに飛び込んできた。
子供は、これがロインクロス(腰布)かと疑いたくなるような、ボロボロの布をまとっている。
続いて、ルジェトが駆け込んできた。
大神官は不機嫌な声を出す。
「デペイ殿下に失礼ではないか!
 その汚いのを、早く連れて行きなさい」
叱られたものの、ルジェトは悪びれもしない。
さっさと子供を捕まえると、デペイに向かってちょっと肩をすくめて見せた。
「申し訳ございませんでした」
言葉だけはていねいだが、いたずらっ子のようにぺろりと舌を出して、あっという間に去る。
大神官が眉根を寄せた。
「あれの趣味にも困っております。
 近所の子供たちを集めては、文字を教えているのですが……
 貴族の子でも貧民の子でも、一緒くたなのです。
 全く、何を考えているものやら……」

デペイの中では、ルジェトの存在が日増しに大きくなっていった。
その頃、父王ヘセティ三世が崩御して、身辺があわただしくなったせいもあるが、自分の気持ちを胸にしまったまま、日々が過ぎ去っていった。
七十日の喪が明けて、兄の即位の日が近づく。
祭礼が終わったら、大神官にルジェトのことを頼んでみようか。
そう思っていた矢先。
兄が、ルジェトを王妃に選んだ。

考えてもみなかったことだった。
いつの間に、兄はルジェトを見初めていたのだろうか。
ルジェト自身は、兄をどう思っているのだろうか。
ふたりの間に、すでに約束があったのか。
それとも、大神官の政治的な根回しによるものなのか。
全くわからなかった。
また、訊ねることを許される立場でもなかった。
兄は王で、自分はただの弟なのだから。

デペイは、全てを胸の内に封じ込めた。
もともと人前に出るのは嫌いだったが、更に公の場を厭うようになった。
兄とルジェトが並んでいる場面を見るのは、耐えられなかった。
そればかりでなく。
兄は、デペイの想いを知っている風だった。
用事を作っては、足繁く大神官の家に通っていたことを、兄は見ていた。
おとなしい弟が、急に積極的になった理由を、同じ血の流れている兄にわからないはずはない。
公を重んじる兄だから、面と向かってなじられることはなかったが、避けられているのは明らかだった。

デペイは書斎に閉じこもり、俗界から顔を背けた。
うやむやのままに時は流れ、書斎にパピルスの巻紙と、満たされぬ想いだけが降り積もる。

ルジェトは兄をよく助け、王妃として多くの公務をこなした。
そして、病に伏した。

五年前。
メルの国に熱病が流行った時。
ルジェトも軽い症状に襲われた。
だが、兄は彼女を休ませなかった。
地方の慰問に連れ回して、激務を強要した。
ルジェトが倒れるのは、時間の問題だった。
デペイは、ルジェトと顔を合わせないようにしていたが、伏せったと知って、たまらずに病床を見舞った。
熱に浮かされながらも、ルジェトは民のことを考え続けていた。
そして、一人娘のメル・レー・トゥをことさらに心配していた。
ルジェトは言った。
「あの子が寂しい時、話し相手になってやってください。
 わたくしの代わりに……」

*      *      *

「ああああ……!」
セケムは、悲鳴のような叫びを聞いた。
漆喰の壁を通して、しびれが耳に伝わってくる。
続いて、道具がぶちまけられる音がした。
思わず、首を伸ばして中の様子をうかがう。
壁の上方に開いた明かり取りの窓からそっと覗くと、パピルスの巻物が部屋中を舞っていた。
青年というには少しばかり年をとった男が暴れている。
質素なロインクロスをつけている以外は、腕輪も足輪もつけず、カツラもかぶっていない、書記のような格好だ。
これが王弟デペイ……姫様の言う、頭が良くて優しい叔父さんなのか……?

デペイはセケムに気付く様子もなく、四方の壁を埋めているパピルスや粘土板を投げ散らかした。
こけた頬が涙で濡れている。
学者らしい細い腕のどこにそんな力があるのかと思えるほどの勢いで、棚をひとつひっくり返した。
漆喰を塗った壁がむき出しになる。
デペイは、壁に手をかけた。
軋んだ音。
壁が、ぽっかりと口を開けた。

……姫様!?
セケムは目を疑った。
壁の中には、王女の姿があった。
頭の片側から編み下げを垂らした童女の髪、アーモンド型の大きな目。
小柄で、ガゼルのようにしなやかな四肢……
デペイは華奢な胴に腕を回し、激しく抱きしめた。
王女は像のように硬直したまま、動かない。
いや、像そのものなのだ。
それは、様式を重視するメル美術の原則を全く無視していた。
生きた人間そのままの精巧さだ。
小麦色に着彩された頬には、弾力さえ感じられる。
デペイはその頬に唇を押しつけた。

セケムは、思わず声を上げてしまうところだった。
なんだ、こいつは!?
体中の肌が泡立った。

この像は王女ではなく、母のルジェトなのだが、セケムにはわかるはずもない。
デペイは、セケムの目の前で王女の似姿をかき抱きながらつぶやき続けた。
「メル・レー・トゥは、きっと私の元に戻す。
 シェメウなどには、やらない。
 兄上にもやらぬ。
 メル・レー・トゥは私が守る……」


第九回・終わり



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