剣 Shotr Stories
 [ 第十回 ]




ヘセティ四世は、ついに重い腰を上げた。
いつもと変わらぬ乱れのないいでたちの中で、二つの瞳だけが激しく燃え立っている。
たくましい壮年の体に、黄金の粒を象眼した青銅の鎧をまとい、コブラのメネス(頭巾)を投げ捨てて、兜をかぶる。
王錫は戦槌に持ち替えた。
「ワセトへ!」
短く言い放つ王の声に呼応して、人馬が動いた。
メルの軍勢は、国境の町へ向かった。

*      *      *

不覚にも、落とし穴に落ちた後。
王女は、独房といっても過言ではない、一軒の家に閉じこめられていた。
日干しレンガと牛の糞で作られたこの建物は、村のどのあたりにあるのか、さっぱりわからない。
最初にあてがわれた家よりも天井が高く、明かり取りの窓が壁の高いところに開いている。
最も背の高い家具は寝台で、小柄な王女がこの上にのぼったところで、外の様子をうかがうことはできなかった。
耳をすましても、子供たちが騒ぐ声が聞こえない。
村の中心地からは外れたところにあるということか。
村人たちは、もはや訪れず、建物の外には二人の見張りが常時はりついている。

王女は、なにもすることがないので、寝台に転がった。
落とし穴にハマった時に打ちつけたところが、まだ痛い。
確かめることはできないが、多分、アザになっているのだろう。
じんじんと鈍いしびれがある。
そのしびれを噛みしめていると、怒りがこみ上げてきた。

穴に落ちたところをのぞき込んだエク・エンの顔が、まだ目に焼き付いている。
あの男はあきれたような表情をしていた。
そして、
「王軍が来たかと思えば……」
と、つぶやいた。
どうやら、王女が落ちたのは、外敵防御用に作られた堀らしかった。
決して、王女を逃がさないために用意された罠ではなく、予測不能な外からの侵入者に対して張られたものなのだった。
そんなものにハマッてしまったとは、あまりにも間抜けで情けない。
おかげで、脱出に失敗したものの、絶望する気にも悲嘆する気にもなれなかった。
王女は背中の痛みに、むかっ腹を立てながら、めまぐるしく頭を働かせた。
なんとか、ここを出る方法を見つけるのだ。

考えを巡らせていると、表で鎧が鳴る音がした。
数人分の足音がする。
見張りの交代か?
そう思うのと同時に、扉が開いた。
細長い人影が、太陽の白い光の中に突っ立っている。
顔は見えないが、このシルエットには見覚えがある。
「メル・レー・トゥ」
影は、懐かしい声を出した。

「叔父上!」
王女は寝台から跳ね起きた。
叔父は、後ろを振り返って、側の者にひとことふたこと言いつけた。
その中には、エク・エンの顔も見える。
男たちは、恭しく礼をして、扉を閉めた。
鉄の鎧が遠ざかって行く音がする。
王女は呆然として叔父を見つめた。
どうして、ここに?
王女は寝台の上に座り込んだ。

「気分はどう?」
叔父はいつもの優しい声で言った。
ゆっくりと近づいてきて、幼い子供に話しかけるように、メル・レー・トゥの前でしゃがんだ。
憂いをふくんだ知的な顔が、こちらを見上げている。
王女は混乱した。
言葉も出ないまま、叔父から顔を背けた。
「君に、何も話さないでいたのは悪かった。
 でも、こうするしかなかったんだ。
 王宮では、兄上に逆らえない」
叔父は、王女の隣に座って、背中に手を回した。
アザに手が当たって、しびれるようにうずく。
王女は身震いした。
「私は、何度も兄上に進言した。
 シェメウとの取り決めは破棄するべきだと言ってきた。
 だが、兄上は、君を人質に出すことをやめようとはしなかった」
叔父の声が耳元で響く。
いつもは穏やかな声なのに、今は熱を含んでかすれている。
「叔父上が、私をここに……?」
王女は叔父の声を避けるように首を傾けた。
「ルジェトとの……君の母上との、約束だから。
 私は君を守らねばならない」
叔父の腕に力が入った。
王女は、叔父の薄い胸に引き寄せられる。
背中が痛い。
叔父は、力を緩めてくれない。
「かわいそうなメル・レー・トゥ。
 君の父親は、君を守ろうとはしない。
 あんな男のことは、忘れてしまおう」
王女はもがこうとしたが、叔父の腕はかなり強く、ほとんど身動きできない。
なにかが違っている。
叔父上は、こんな人ではないはずだ。
ここにいるのは、いつもの叔父上ではない。
「兄上を倒して、新しい国を作ろう。
 君のための国だ。
 私は、君のために、命をかけよう」
叔父の手が頬にふれた。
ひげをそり、きちんと眉を整えたいつもの顔が、驚くほど間近に迫っている。
優しかった目には、激しい炎が燃えていた。
メル・レー・トゥには、叔父の心にあるものがわからない。
ただ、とても恐ろしい。

「デペイ様!」
表でエク・エンの声がした。
叔父は、我に返ったように腕の力を緩め、メル・レー・トゥを放す。
寝台から立ち上がって、扉の方に声を返した。
「何事か!」
その声には、激しく強い力がこもっている。
外の声は言った。
「ヘセティ四世が、ワセトにて捕縛されました!」
短い言葉が、恐ろしい事実を告げる。
王女は息を飲んだ。
「生死は!」
デペイは動じる様子もなく、力のこもった声で問い返す。
「生きております。
 ジェアはヘセティを使ってどう取り引きしようか、考えている模様です」
「ははははははは……!」
デペイは、狂ったように笑った。
いつもは軽く丸めていた背中を、思い切り反らせている。
ひとしきり笑った後、デペイは王女の方に向き直った。
「案ずることはない。
 メルは古い王を捨て、君を新しい王にするのだ。
 明日、王宮へ戻ろう。
 君の王宮へね」

*      *      *

セケムは、ハピのほとりの村に戻っていた。
様々な道具を入れた袋を背負っている。
鉄の鎧と鉄の武器で身を固めた男たちに、正攻法は通じない。
奇襲をかける以外にないのだ。

……俺ァ、バカかもしれない。
セケムは村をにらみながら、ボサボサ頭をかき回した。
胸の内には、王女救出の作戦がある。
かなりむちゃなやり方だ。
もしかすると、死ぬかもしれない。
いや、生死の割合で言ったら、圧倒的に死が勝っている。
しかし、不思議と、怖いとは思わなかった。
腹の下の方に、重たい塊があるようなカンジだ。
本来なら、ひざをわななかせる震えが、ぴたりと止まっている。
理由はわからない。
ただ、姫様を助けたい。

辺りを見回して、セクメトを捜す。
作戦には、どうしても雌ライオンの牙と爪が必要だ。
と、言うより、武器らしい武器はそれしかない。
セケムが調達した道具の中には、剣も槍も入っていないのだ。
利口なライオンは、きっとこの辺りで待っていてくれたはずた。
地面の上にライオンの痕跡を探していると、子供の声が聞こえた。
「あははは、セクメト、こっちにおいで!」
セケムは首を傾げる。
セクメトの名前を知っている?
「こっち、こっち!」
子供の声は、どんどん近づいてきた。
少し離れたところにある丈の高い茂みが、ガサガサ揺れる。
八つか九つくらいの男の子が、飛び出してきた。
続いて、雌ライオンが追いかけてくる。
男の子とライオンは、同時にセケムに気付いた。
「姉ちゃん」
セケムが声をかけると、セクメトは巨大な猫になった。
白い腹毛を見せて、だらしなく舌を出し、ごろごろとのどを鳴らす。
男の子は、びくびくしながらこちらを見ていたが、セクメトが喜んでいるのを見て、こちらに近づいてきた。

セケムはしがみついてくるセクメトをいなしながら、男の子に声をかけた。
「そこの村の子か?」
「うん」
「なんで、こいつの名前を知ってんだ?」
「……おひめさまのライオンだから」
「おまえ、姫様を知ってんのか?」
「あんちゃんこそ」
セケムと男の子は向かい合った、
セクメトが、背中を地面にこすりつけながら、その間で転がっている。
セケムは膝を折り、男の子の目線に合わせた。
きょろりとした大きな目が、こちらを見ている。
そうだ、このガキには見覚えがあるぞ。
姫様を市場で転がした、スリのガキじゃないか。
「姫様は、セクメトがここにいること、知ってんのか?」
セケムは訊いた。
「ううん。
 セクメトには、さっきここで会ったの。
 おいら、おひめさまに会えなくて、つまんなくなっちゃったから。
 ひとりで遊んでたら……そしたら」
「ふうん」
セケムはなるべく優しい顔を作って見せた。
男の子はしゃがみ込んで、セクメトの腹をなで始める。
「おいら、おひめさまと友達なんだよ。
 いっつも、イチジクとか、ナツメとか、あげてたんだ。
 なのに、もう会えないんだよ」
「姫様は、村からいなくなっちゃったのか?」
「ううん。
 村はずれの空き家にいるよ。
 けど、こわいおっちゃんたちが、いっぱいいて、近寄れないの」
村はずれ、ね。
セケムはあごをなでた。
もしかすると、生死の分が良くなってくるかもしれないぞ。
「なあ、坊主。
 聞きたいことがあるんだ。
 姫様のためなんだけどな……」
セケムはまじめな顔で男の子に言った。
男の子は一人前の顔つきになってうなずく。
ふざけていたセクメトが、むくりと起きあがり、獣の瞳を輝かせた。

第十回・終わり



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