剣 Shotr Stories
 [ 第十五回 ]



何日ぶりの水浴だったろうか。
砂漠と荒野の汚れが、水の中に溶けていく。
六人もの女奴隷が、四肢と髪とに取り付いて、メル・レー・トゥを磨き上げた。
体についた砂と埃は、旅の証だった。
何度も水をかけ、湯でほぐしてもなかなか落ちない。
油とソーダをたっぷりつけられ、北方の国で生まれた極上の海綿で肌をこすられる。
手足の爪にはていねいにブラシがかけられ、全ての汚れが取り除かれた。
なにもかも、なくなってしまうような気がした。

メル・レー・トゥは、ただ漠然と荒野での出来事を思い出していた。
動かないセケム。
長い手足を放り出し、死んだように転がっていた。
その情景に、セクメトの悲しい声がかぶる。
やがて、荒々しい馬の上。
胴に巻きついた太い腕。
見知らぬ王の手の中。

女奴隷たちはメル・レー・トゥを湯船につけた。
それはちょうど棺桶くらいの大きさで、豪奢な金の飾りがついている。
バラの花びらをたっぷり浮かべた湯の中に横たわると、なにもかもが幻だったような気がしてきた。
どうでもいいってわけじゃない。
ただ……
いったい、私はなんのためにここにいるのだろうか。
私は、なんで生まれてきてしまったのだろうか。
国のため?
お父さまのため?
……騙されるため?

湯船から上がると、体中に香油がすりこまれた。
王宮で使っていたものとは違う。
むせかえるような麝香のにおいがした。
誰の好みだろう。

長い髪は梳られて、金と銀と宝石をちりばめながら、見たこともない形に結い上げられた。
耳の上の髪を思い切り引っ張られて、痛い。
シェメウの髪型か。
後宮の女たちは、みんなこんな頭をしているのだろうか。

手足の爪に、ヘンナの花びらがすりつけられた。
指先が紅色に染まる。
血のように毒々しい。
なにか、生き物の体を素手で引き裂いたら、こんな色になるだろうか。
これでは、書物も読めない。
手紙も書けない。
この赤を見ながら、仕事をするのはいやだ。

おしろい、孔雀石の粉、黒いマスカラ、紅。
色とりどりのパレットが、めまぐるしく目の前を動き回る。
瞼も、頬も、唇も、刷毛と葦ペンでなでまわされた。
私の顔をどうするつもりだろう。
別のものに作り変えるつもりなのか。

最後に、銅の鏡が差し出された。
牛の角をつけた美の女神が取っ手を務める、メル様式の鏡。
丸く切り取られた鏡面には、見知らぬ女がいた。
メル人の小麦色の肌が、真っ白に塗られている。
全てをいったん塗りつぶされて、新たに描き直されたような顔だ。
アーモンド型の大きな目には、必要以上に縁取りか施され、余計に大きく見える。
瞼に塗られた孔雀石の緑がそう見せるのか、黒い瞳がうるうると泣きそうに潤んでいる。
小さな唇は、どぎつい紅でより小さく描かれていた。
語ることを放棄し、ただ見続けることだけを強要された顔。
これが私?

もはや少女ではない。
露出した肩と胸元に、金の飾りがつけられる。
「陛下からの贈り物です」
女奴隷が言った。

まるで、生け贄の牛だ。
飾り立てられて、誰かに供ぜられる。
私は、それだけのもの。
そのためだけに、生まれてきてしまった。

「美しい」
低い声がした。
振り返ると、ジェア王がいた。
長い豊かな黒髪を、空気の流れのまま、放っている。
機能重視でほとんど飾りをつけない服装だが、腰に履いた剣だけがやたらとごてごてしている。
ジェアは、剣についた金の鎖を鳴らしながら、近づいてきた。
女奴隷たちが天幕のように、ぱっと左右に割れる。
めいめい、用の済んだ道具をつかむと、部屋から出ていってしまった。

ジェアが来る。
セケムほど背は高くはないが、腕や胸板は二倍くらいありそうだ。
意識して鍛えていることがわかる筋肉や反り返った王者の姿勢は、父に似ていながら似ていない。
善王として人々から愛されるヘセティ四世と違い、柔和なイメージはかけらもない。
ジェアがまとっているもの……それは、恐怖だ。
周囲の者を従わせずにはいられない、絶対的な威圧感がある。
整いすぎた顔立ちと、青い瞳が恐ろしい。
美しいのも、一種の異形だ。
セケムの長い顔と細い目に宿っていた暖かさが、ジェアにはない。

「妻よ」
ジェアはいやな言葉を言った。
「おまえの名前を考えなければならないな」
姿形ばかりでなく、呼び名まで変えるつもりなのだろうか。
「メルは国の名、レーはメルの大神の名だ。
 余のものとしてはふさわしくない」
……もの。モノ?
メル・レー・トゥは眉根を寄せた。
「俺が嫌いか?」
好き嫌いの問題ではない。
「怖いか」
ジェアの青い目が間近に迫ってきた。
近くで見ると、その瞳はなおさら冷たく、とても人の目には見えなかった。
鳥や獣の目にも似ていない。
そもそも、血の通ったものの目ではない。
神話の悪魔が実在するなら、きっとこんな目だ。
恐ろしいのに、見つめているとひきこまれそうになる。
メル・レー・トゥは顔を背けた。

「どちらでも、構いはしない」
ジェアは続けた。
「役に立てば、それでいい」
「役……」
私に、なにをしろというの?
「おまえは、変わった術が使えるそうだな」

メル・レー・トゥはジェアの方を向いた。
恐ろしい青い瞳が、更に冷たい光を放っている。
つい、その眼光にとらわれて、視線をはずせなくなった。
ジェアはメル・レー・トゥの目をつかんだまま言った。
「余はクムトの全部が欲しい。
 だが、シェメウだけの力では到底及ばない。
 戦には、いろいろなものが必要だ」
戦をおこす?
「おまえは、麦を生やすことができると聞く。
 それが本当なら、余は無限の兵糧を得たことになる」
戦のために、魔法を?
「さあ、やってみせろ。
 準備が必要なら、なんなりと聞いてやる」

「……できません」
メル・レー・トゥは堅く目を閉じた。
ようやく青い眼光から自由になって、言葉を発することができた。
「できぬ?」
「練習しましたが、二度とできませんでした」
これは事実だ。
メル・レー・トゥは目を閉じたまま、続けた。
「私は、魔法など使えません」
使えたとしても、戦のためになど……

「余は、おまえの父親を持っている」
ジェアの冷たい声がした。
ふいに、首全体を大きな手でつかまれた。
ジェアの右手が、首筋に食い込んでいる。
絞められてはいないものの、息がつまった。
ジェアの指から、しびれるような痛みが流れ込んでくる。
立っていられない、
メル・レー・トゥは、エラを鈎にかけられた魚のような格好で、だらりとぶら下がった。
ジェアの手が外れる。
魚は床にくずれた。
手をついて、ひどく咳き込む。
頭が痛い。
息ができない。
苦しむ上から、ジェアの声が落ちてきた。
「兵糧が出せたら、父親に会わせてやろう」

*      *      *

結局、メル・レー・トゥは太守邸の一室に閉じこめられた。
牢獄のように何もない四角い空間に、『息吹(トゥ)』の緑柱石だけを持って、座り込む。
この部屋から出られるのは、水浴の時だけ。
ただ、家畜のように閉じこめられている。

ジェアは、メル・レー・トゥのことを、人間だとは思っていないらしい。
もっとも、彼の場合、全ての人間に対してそうなのだが。
命あるものも、そうでないモノも、全く等価だ。
将棋でもするように、クムトを攻略しようとしている。
……私もまた、その駒のひとつにされようとしているのか。
ジェアは、その姿勢を象徴するかのように、メル・レー・トゥをただ『トゥ』と呼んだ。
確かにそれはメル・レー・トゥの名前の一部ではあるが、魔法の名前そのものでもある。
メル・レー・トゥは一個の人間ではなく、一種の機能として扱われているのだ。

もはやその扱いをどうこう言うつもりはない。
気がかりなのは父のことだ。
セケムが結局ジェアの手下であったにせよ……ワセトの町へ来ることには成功した。
ここへ来たのは、父を助けるためだ。
ひいては、メルの国を守るためでもある。
ジェアに父と国の命乞いをするには、まず『息吹(トゥ)』の魔法を使って、役に立ってみせなければならない。
だが、そのことは、クムトの地全てを覆う戦争の幕開けとなる。

メル・レー・トゥは悩んだ。
麦を出して、ジェアに頼みを聞いてもらうか。
……死ぬか。

自暴自棄になったから、死を選ぶのではない。
ジェアが起こそうとする戦争に荷担しないため、命を絶つのだ。
このまま悩み続ければ、いずれ心が萎えて、ジェアに協力してしまうかもしれない。
そのときに魔法が使えるかどうかはわからないが……
私自身と『息吹(トゥ)』の緑柱石がある限り、よくない可能性はなくならない。
でも、そうしたら、お父さまは……

行きつ戻りつ。
逡巡を続けるまま、どちらもできないままに、日が経った。
メル・レー・トゥはただ食事だけを拒み続けて、四角い空間に座り続けた。
餓死するかもしれない。
そのときは、どちらも選ばなかったことになるのか。
結果は?
お父さまが殺されて、メルが攻められるのか。

考える気力もなくなりかけた時、扉が開いた。
ジェアが立っている。
「トゥよ。
 父親に会わせてやろう」

第十五回・終わり



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