剣 Shotr Stories
 [ 第十九回 ]



それは、建物の屋根に穴を開けて、中を覗いているような構図だった。
メル・レー・トゥの目線は床と水平だというのに。
目の前に見えるのは壁ではなく床で、その上に……と言うべきか、前にと言うべきか……不遜に立っているジェアの脳天がある。
目をこすってもう一度見ても、同じだった。
メル・レー・トゥは、またしてもへたり込む。

朱鷺がゆったりと傍らに降りてきた。
長い首がいたわるように、メル・レー・トゥへ向けて傾く。
……見よ。

ジェアを囲む壁には、首に鎖を掛けられた無数の兵士たちが描かれていた。
正面に得体の知れない化け物の肖像がある。
ねじれた角、毛むくじゃらの腕、蛇の頭を持つ尾、二つに割れた蹄。
何種類もの動物をバラバラにして、めちゃくちゃに継ぎ合わせたような奇怪な姿だ。
刃物のような爪の生えた手らしき部分で、兵士たちの首に繋がる鎖を束ねている。
ジェアの足元には、書き物机の天板ほどもある大きな六角形の紫水晶が、四つばかり並んでいた。
メル・レー・トゥが『息吹(トゥ)』の緑柱石をもらったときに見たものと、全く同じだ。
ただ『息吹(トゥ)』の場合、壁に描かれていたのはハピの風景や子供たちだった。
なぜ、ジェアの場合は恐ろしげな化け物や繋がれた兵士たちなのだろう。

……過ぎた力。
    あの男の望みは、人の望みを越えている。
朱鷺は謎めいた言い回しで答えると、長い首をジェアのいる空間へと伸ばした。
頭部とくちばしが、メル・レー・トゥの視界から、ぷっつり消える。
まるで、首がなくなってしまったかに見えた。

……ジェア、シェメウの王よ。
朱鷺の声が響いた。
ジェアの頭が左右に振れる。
声の主を捜しているのだ。
ひとしきり首を振った後、奇怪な魔物の絵に顔を向けた。
……石に乗るがよい。
ジェアは、魔物の絵に向いたまま、うなずいた。
どうやら絵の方から朱鷺の声が聞こえているようだ。
飾り剣の鎖をしゃらりと鳴らして、逞しい体が動いた。
ジェアの足が、紫色の水晶にかかる。
閃光。

浅黒いジェアの肌を溶かすように、真っ赤な光が水晶から立ちのぼった。
メル・レー・トゥが『息吹(トゥ)』を得た時と似ている。
だが、水晶からほとばしる光は青でなく、ジェアのそれはあくまで赤い。
あまりのまぶしさに、メル・レー・トゥは腕で顔を覆った。
ジェアの立つ床がこちらの目線と垂直なため、赤い光がまともに目に入る。
それでも、何が起きているのかを見届けるため、必死で目を凝らした。
長い黒髪が、光の中で踊っている。
赤い閃光は風のようにジェアの足元から吹き上がり、やがて静まった。
紫の水晶は、石榴のような赤に染まっている。
「おお……」
ジェアがため息をもらした。
かすれた低い声が、メル・レー・トゥにも聞こえる。
反らした背中が、ますます弓なりになり、黒髪がゆったりとなびいた。
ジェアは目を閉じている。
恍惚と、酔いしれて。

次の瞬間、無数の蝿が飛び立つようなうなりが響いた。
ジェアを囲む壁がざわめいている。
重たい鎖と鎧がふれあう音。
ジェアの目が開いた。
青い瞳が、メル・レー・トゥを射すくめる。
「あ!」

こっちを見ているのかと思った。
しかし、ジェアはメル・レー・トゥを見ているわけではないらしい。
朱鷺の首が、なにもない空間から戻ってくる。
長いくちばしがメル・レー・トゥの乱れた髪をくしけずった。
……じきに終わる。
朱鷺の声と同時に、壁画の兵士たちが立体となった。
つぎはぎの化け物が、どんな動物の声にも似ない咆吼を上げる。
化け物の束ねる鎖がうねり、兵士たちが一斉にジェアを覆った。
冷酷な王の姿は、たちまち見えなくなる。
鎧と鎖が巨大な固まりとなって、一匹の動物のようにうごめいた。

メル・レー・トゥは悲鳴も上げられずに、両手で口を押さえた。
朱鷺のゆったりとした声が耳元に響く。
……悪しきもの、石を赤く変える者は、己が力によって押しつぶされる。
    それが、メルの理。
抑揚のない、残酷な宣告。
鎖を束ねる化け物が、ゆっくりと壁画から出てきた。
長い爪の生えた手らしき部分を、兵士たちの間に突っ込む。
なにかを探すようにまさぐり、ジェアをつかみだした。
青い瞳は閉じられている。
ジェアの強い体は、化け物の手にほとんど覆われて、見えない。
「死んだの……?」
メル・レー・トゥは小さくつぶやいた。
……見よ。
朱鷺の静かな声が響く。

ジェアをつかんだ化け物の口が開いた。
炎よりも赤い舌がくねっている。
鋭く尖った歯が、その舌を幾重にも取り囲み、タールのような唾液が、糸を引いた。
どうしてそんな色がついたものか、緑色の息が吹き出す。
化け物の手が開いた。
目を閉じて硬直しているジェアが乗っている。
化け物は己の手を食らうほどの勢いで、ジェアを飲み込んだ。

その時。
化け物の歯が八方に飛び散った。
歯がなくなった隙間から、赤い閃光が走る。
化け物は吠えた。
その声はどんな動物にも似ていないが、悲鳴であることは明らかだった。
朱鷺が鋭い動きで首をもたげる。
メル・レー・トゥの視界を、黒い風切り羽が遮った。
朱鷺は中型の水鳥のはずなのに。
翼が天幕のように大きく拡がって、メル・レー・トゥを包む。

山が砕けるような音がした。

爆裂音とともに、メル・レー・トゥの体は宙を舞った。
大地の引力がどうかしてしまったのではないだろうか。
朱鷺に抱かれたまま、空中をめちゃくちゃに飛び回る。
体中の血が振り混ぜられてしまいそうだ。
メル・レー・トゥは長い悲鳴をあげた。
自分の声が尾を引いて、どんどん遠くへ流れてゆくように思えた。
やがて、メル・レー・トゥと朱鷺は、どこだかわからない壁に激突して止まった。
朱鷺の羽がぱらりと開いて、視界が広がる。

ジェアがいたはずの空間が、粉々に砕け散っていた。
なにもかもが宙に浮いている。
メル・レー・トゥと朱鷺のいる場所だけが、なんとか部屋の形を保って静止していた。
後はもう、水の中にぶちまけた麦の粒のように、めちゃくちゃに漂っている。
ジェアを取り巻いていた壁画の残骸が、そこかしこに浮かんでいた。
残骸からは、嘆き声が蝿の羽音のようにわき起こっている。
よく見ると、ひとつひとつのかけらから、兵士たちが頭を出しているのだった。
平面の世界から逃れようとしているのか、それとも絵の中に戻ろうとしているのか。
無数のかけらはどれも違って見えたが、どの兵士も同じようにもがいていた。
首につけられた長い鎖が、彼らを逃がさないとばかり、ぴんと引っ張られている。
鎖の先は、一点へと集中していた。
それを目でたどれば。

「ジェア!」
すべての鎖をつかんでいたのは、黒髪の王だった。
壁画の化け物ではない。
様々な動物を継ぎ合わせて作ったような化け物は、どこかへ消えている。
代わりにジェアが、兵士たちの主となったのか。
ジェアは、馬の手綱を操るように、たやすく鎖を引き寄せた。
兵士たちが、絵のかけらから一斉に引き出される。
「ははははは……!」
ジェアの笑い声が響いた。
兵士たちは完全な立体となった。
得体の知れない材質でできた銀色の鎧が、うろこのようにきらめく。
ジェアが鎖を振ると、兵士たちは整然と並び始めた。
きっちりと隙間のない方形となって、主の方を向く。
ジェアは束ねた鎖をひと振りした。
兵士たちが従う。
銀の鎧の群は、一糸乱れぬ動きでジェアを取り囲んだ。
最も内側にいるものたちが主を頭上に抱え上げる。

そして。
兵士たちは、翼もないのに飛び立った。
大地の引力を無視した黒い空間に、銀の鎧が羽ばたく。
中央にジェアを頂いて、兵士たちは上へ上へと飛んだ。
大連隊は遙か上の方にある石の天井をブチ抜く。
メルの塔は揺らいだ。
メル・レー・トゥと朱鷺がいる場所も、立っていられないほどに揺れ動く。
瓦礫が飛び交い、轟音でなにも聞こえない。
ジェアと兵士たちは、メルの塔を突き抜けて、高く高く飛び立っていった。

後には、激しい揺れと轟音が残った。
朱鷺は翼を広げ、メル・レー・トゥをかばった。
瓦礫は容赦なく降り注ぎ、足元の床石はみしみしと軋む。
もはや、メルの塔は倒壊するのか。
そう思いかけた時、揺れと轟音がゆっくりと静まった。
朱鷺の翼がそっと折りたたまれる。
メル・レー・トゥが頭を起こすと、頬に涼しい風が当たった。
夜風だ。
髪が耳の後ろへ引っ張られる。
メルの塔は、すっかり吹きっさらしになってしまった。

「ジェアは……?」
メル・レー・トゥは小さくつぶやいた。
朱鷺はジェアと兵士たちが去っていった方を向いて、微動だにしない。
……メルの都か。
今まで、一度も動じたことのなかった声に、緊張感が満ちている。
「都へ行ったの?」
……行った。
「都を襲うの?」
……襲うだろう。
    ジェアは、過ぎた力を得てしまった。
朱鷺は、まだ動かない。
黒い冠毛が風にそよいでいる。
メル・レー・トゥの髪も同じ向きにたなびいた。

……まさか、こんなことになろうとは。
朱鷺は、まるで人間のようにつぶやいた。

第十九回・終わり



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