剣 Shotr Stories
 [ 第二十二回 ]



イアルの野とは、神話に出てくる地名である。
西の果ての果て、更に果て。
空飛ぶ船で天空を渡る太陽が、一日の仕事を終えて安らぐところ。
そこは、メルの国と地続きで、同じように大きな河が流れ、肥沃な大地に麦の穂が実っている。
人々は大地を耕し、尽きない自然の恵みの中で、幸せに暮らしているという。
ただひとつだけ違うのは、そこに住まう者たちが、すでにこの世をみまかった魂であるということだけだ。
生きた者がそこへ行った話など、聞いたこともない。
ましてや、イアルの野が実在であることすら、疑わしい。

それでも、メル・レー・トゥは歩き続けた。
他には方法がない。
父の命乞いをするためにメルの都へ行っても、ジェアが聞き届けるはずなどない。
セケムのような知恵や、セクメトの爪と牙があれば、一矢報いるくらいはできるかもしれないが。
王女という身分を離れた十四歳の少女は、砂漠のネズミよりも無力だ。

朱鷺はメル・レー・トゥのすぐ前を静かに飛び続けた。
セケムのように、歩調を合わせてくれたりはしない。
食事も水も補給しないまま、ただただ飛び続ける。
振り返りもしない。
メル・レー・トゥが倒れたとしても、そのまま飛んでいってしまうだろう。
それが怖くて。
メル・レー・トゥは朱鷺を追い続けた。
灼熱の太陽に照りつけられて、体の水分が蒸発してゆく。
舌が上顎にはりついて、動かなくなる。
目がかすみ、頭は朦朧として、暑いのだろうが何も感じなくなる。
体がふんわり浮かび上がって、自分の体重さえ太陽に吸い取られてしまったようだ。
サンダルがすり切れた。
朱鷺が行ってしまうので、直すヒマもない。
ネコのように足首を振って、脱ぎ捨てた。
柔らかな足が、焼けた砂で火膨れになる。
痛いはずだが、じんわりと熱いだけだ。
メル・レー・トゥは歩き続けた。
足の裏が熱い。
熱い。
熱い……

世界は真っ白に燃えて、消えた。

*      *      *

「何を考えているのだ。
 そなたの意志がわからない」
山犬の頭をした男が言った。

得体の知れない暗い空間。
広さも高さもわからない。
中央に巨大な天秤がある。
その片皿に羽毛が一枚乗っている。
もうひとつの皿には、なにも乗っていない。

天秤のまわりには、様々な人々がいた。
黄金の冠を頂いた女、ミイラの衣装をまとった男。
シストラム(がらがら)を持った女は、体が人間で頭は猫。
牛の頭の女もいる。
ライオンの頭の女もいる。
そして、朱鷺の頭の男も。

「可能性に賭けてみたい」
朱鷺の男が言った。
「可能性!」
山犬が鼻を鳴らした。
「そなたの言葉とも思えない。
 知恵そのものであるはずのそなたが。
 可能性と?」
朱鷺は一歩踏み出す。
「知恵は、それだけでは作用しない。
 強い意志があればこそ……」
「だから、読み違えたというのか。
 メルの魔法を、悪しきものに渡してしまったと?」
山犬は吠えかからんばかりの勢いで、牙をむきだした。

朱鷺は、静かにメル・レー・トゥを抱き上げた。
天秤の空いている方の皿に近づく。
「生命は時に、我々の言葉を越える」

メル・レー・トゥは皿の上に寝かせられた。
天秤棒がゆっくりと動く。
二つの皿は平行に並んだ。
「おお」
と、その場に居合わす一同の間から、感嘆の声があがった。
「釣り合った!」
山犬の頭の男も、目を丸くしてため息をもらす。
だが、すぐに厳しい面もちに戻って、
「まあいい……やってみればわかる。
 うまくいかなくても、バァ(魂)がひとつ食われるだけだ」
「感謝する」
朱鷺の男は右手を挙げて、山犬の男と一同に礼をした。

暗い空間が、朝日の射すように白く輝いた。
メル・レー・トゥは閉じた瞼の裏から、まぶしい光を感じた。

*      *      *

「あれ?」
メル・レー・トゥは目を開けた。
妙な空間は、いつの間にか消えていた。
動物の頭を持った人々は、どこにもいない。
「……夢?」
何度か瞼をしばたたいた。
目の前にはシュロの葉が複雑な編み目を作っている。
シュロ?

はね起きると、辺りには砂がなかった。
程良い湿り気をおびた黒い豊かな土が拡がっている。
ナツメヤシやイチジクの木が、たわわに実をつけて立ち並んでいた。
さわやかな葉陰の向こうには、金色の麦の穂波がさざめいている。
河の流れる音がした。
「ここは……?」
メル・レー・トゥは髪の毛に両手を突っ込んだ。
さらさらと音を立てる髪には、砂の一粒もついていない。
砂漠を歩いてきたはずなのに。
足を見ると、桃色の爪をつけた指が、兄弟のように仲よく並んでいた。
火膨れの跡はどこにもない。

そういえば、朱鷺はどこにいるのだろう。
首を巡らせ、その姿を捜してみたが、見あたらない。
心地よく涼やかな風が吹く木陰で、メル・レー・トゥはたった独りだ。
どうしてこんなところにいるのだろう。
砂漠を歩いたことしか記憶にないのに。

メル・レー・トゥはゆっくりと膝を立て、立ち上がってみた。
「あ……!」
体があまりに軽い。
疲労も渇きも空腹も、どこかへ消えていた。
ガゼルよりも速く走れそうな程、脚がなめらかに動く。
自分の体ではないような気がして、試しに飛び跳ねてみた。
軽い。
すこぶる具合がいい。

「とにかく……」
メル・レー・トゥは手足についた少しばかりの土を払った。
「ここがどこか確かめなくては。
 私は、イアルの野を目指していたはずなのだから」
想いをわざと言葉にして、自分自身に言い聞かせる。
朱鷺とは、はぐれてしまったけれど。
ハモンの剣を手に入れるのを、あきらめるわけにいかない。
メル・レー・トゥは歩きだした。

シュロの木陰を抜け、麦畑の方へ行くと、楽しげな歌声が聞こえてきた。
ちょうど収穫なのだろう。
小さな刀を持った人々が、麦の穂を摘んでいる。
「?」
メル・レー・トゥは立ち止まった。
人々はみんな幸せそうだが、なにか変だ。
大きさがおかしい。
みんな、メル・レー・トゥの半分くらいしかない。
なのに麦は丈が高く、人々はみんな頭の上に刀をかざして、収穫していた。
その動きはぎこちなくて、どうにも人間らしくない。
「なんだこれは?」
メル・レー・トゥは、つい好奇心を起こして近くの麦に触ってみた。
穂が七つに分かれている。

「やあ、ようこそ。
 びっくりしたかい?」
後ろから、声をかけられた。 振り向くと、普通の人間と同じ大きさの青年が立っていた。
青年は麦の穂を一杯持った壺を抱え、にこにこと微笑んでいた。
「来たばかりの人は、みんなびっくりするんだ。
 僕もそうだった。
 これがイアルの麦なんだよ」
「イアル?
 ……ここは、イアルの野?」
「そうさ」
青年は、「当たり前だよ」といわんばかりに笑った。
「あの小さな人々は、なにか?」
「ああ、ウシャブティだよ」
「ウシャブティ!」
死者の副葬品にする小さな人形だ。
冥界で、主人の代わりに労働することになっている……だから、ぎこちない動きなのか。
「君も持ってきたろ?」
「いや……」
「持ってないの?」
「それが……私は、埋葬された覚えがない」
「そんなばかな」
青年は手にした壺を取り落とした。
「埋葬されていないバァ(魂)が、ここへ来られるはずはないんだ。
 ここは、正しい生き方をして、正しく埋葬されたバァ(魂)だけが、来ることを許される野なんだよ。
 どうして君はここへ来られたの?」
「朱鷺が……」
メル・レー・トゥは説明しようとして口ごもった。
どう言っていいのかわからない。
「朱鷺に連れて来られたの?
 ……どうして朱鷺はそんなことしたんだろう」
青年は朱鷺を知っているような口振りで言った。
あの鳥はイアルの野の生き物なのかもしれない。
「君はなんのためにここへ来たの?」
青年は訊ねた。
「ハモンの剣を得るために来た」
メル・レー・トゥは短く答えた。
「まさか!」
青年はその場に座り込んだ。
「……信じられないよ、どうしてそんな!
 あれは、ハモンたちが忌み嫌ってきた武器なんだ」
青年の目は、本当に心配してくれているようだった。
だが、メル・レー・トゥは首を横に振った。
「私には、他に方法がない。
 メルの国を救うためにはそれしかないと、朱鷺が教えてくれた」
「朱鷺が……」
青年は、両手を天に突き伸ばした。
「どうしてそんな、恐ろしいことをするのです、朱鷺よ!」
なにもいない青空に向かって、祈りの声をあげる。

ハモンの剣とは、そんなに危険なものなのだろうか。
ジェアに対抗するための武器だから、相応の凶々しさを持っているとは予測できるが。
なんにせよ、この様子では、青年から剣の在処を聞き出すのは無理だろう。
メル・レー・トゥは青年に黙礼して、麦畑の先へと進んだ。
「君、行っちゃだめだ!」
青年の声が追いかけてきたが、かまわず歩き続けた。

第二十二回・終わり



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