剣 Shotr Stories
 [ 第二十五回 ]


墓の谷には、光がなかった。
物の形が見えるから、全くの闇ではないのだろうが。
光とは、全てのものを明らかにし、汚れを暴き浄化するもの。
そのように定義するならば、光がないという表現は正しい。

この場に立つまで。
メル・レー・トゥは、母に手を引かれて歩いて来た。
これまでにあったことを全て話すのに、充分な距離だった。
好奇心から市場に飛び出して、小さな男の子に会ったこと。
男の子は、盗みを働くまでに追いつめられていた。
それがきっかけで、農民たちの村へ連れて行かれ、からっぽの穀物庫を見たこと。
シェメウとの条約のため、農民たちはそれでも麦を取り立てられていた。
どうしても、人々を助けたいという想いで、『息吹(トゥ)』の緑柱石を手に入れたこと。
その試練の中で、神出鬼没に現われて、助けてくれたセケム。
しかし、彼はジェア王の手先だった。
また、叔父のデペイも。
父ヘセティを廃して、メル・レー・トゥを女王にしようとした。
頼みに思っていた人々に裏切られた悲しみ。
誰かに頼るしかなかった自分のふがいなさ。
ジェアに捕らえられた父を助けたかったが、なにもできなかった。
あろうことか、ジェアをメルの塔へ案内し、恐怖の魔法を与えるきっかけを作ってしまった。

母は、かすかな微笑みを浮かべて、全部の話を聞いてくれた。
メル・レー・トゥがどう思い、どう感じ、どう苦しんだかを、わかってくれた。
そして、リュートのように通る声で、母自身の生きてきた道を語ってくれた。

「私は……」
母は、メル・レー・トゥを大人として扱う証に、一人称を使って話を始めた。
「十四歳の時、あなたが見たのと同じような人に会いました。
 それは、十歳になったばかりの女の子でした。
 大神官の娘として暮らしていた私の前に、突然現れたのです。
 その子は、とても薄汚れた姿をしていました。
 なぜだか知らないけれど、おびえていて、私が水遊びをしていた庭に逃げ込んできたのです。
 私は、その子に名前を尋ねました。
 でも、黙ったままです。
 口をきくのがいやなら、パピルスに書いてごらんなさいと言いました。
 けれど……その子は文字を知りませんでした」
母は、少し眉を寄せて笑った。
「私は、文字を知らない人が、メルの国にいるということさえ、知りませんでした。
 それどころか。
 女の子は、今日食べるパンにも事欠いていました。
 とてもおなかをすかせていて……私が犬に与えたアヒルの肉を欲しがったのです。
 私は、本当に驚きました。
 自分の生活が当たり前で、世の中の人たちも、みんな似たり寄ったりの生活をしているものだと、思いこんでいたのですから」
「私も、そう思っていました」
「そうね。
 そして、私もあなたと同じように、苦しんでいる人たちを助けたいと思いました。
 まずは自分の庭に子供たちを集めて、食べ物を与え、読み書きを教えようとしたのです。
 お食事しながら、お勉強をしましょうね、と。
 でも、出来ることには限界がありました。
 私の庭に招けるのは、ごく一部の子供たちだけ。
 しかも、なぜか私の施しを拒絶する子もいたのです」
「どうして?」
「だって、お嬢様の慈善ごっこですもの」
母は、自嘲的できつい言葉を吐いた。
「人は、誇り高い生き物です。
 飢えても施しを拒む人もいます。
 私は、いつしか、施すことで人々を見下していたのかもしれません」
メル・レー・トゥは黙ってうなずく。
「私は、大神官の娘でしたが、結局なにもできないただの子供だと思い知りました。
 それでも、目の前で苦しむ人々を助けたいと思いました。
 ……そんな時、あの人に会ったのよ」
「あの人……?」
「ヘセティ。
 あなたのお父さま」
母は、王の名を呼び捨てにした。
少し顎を持ち上げ、アーモンド型の目を天に向ける。
かすかに浮かんだ微笑みは、心の内からわき起こる誇りをかみしめているように見えた。
「メル・レー・トゥは、お父さまが立派な人だと思う?」
妙な質問をする。
お父さまは、立派に決まっている。
いつでも民のためを思い、王の務めを果たしてきた。
「でも……あの人は、いつでも悩み続けていたのよ。
 堂々とした王になったけど。
 それでも、心の中は悩みと苦しみでいっぱいに違いない……」
「お父さまの苦しみ?」
「あの人は、とてもまっすぐな心の持ち主です。
 だから、民たちのことを真剣に憂えていました。
 メルの国に貧富の差があることを、ことのほか嫌っていたのです。
 けれど、簡単にどうにかできることではないでしょう?
 理想はいくらでも膨らむけれど、現実はままならない。
 国には、たくさんの問題があるし。
 中でも、シェメウとの国交が、最も難しいことでした」
そうだ。
凶作の年でも、重税が課せられたのは、シェメウとの条約のためだ。
そして、メル・レー・トゥ自身のことも……
「あの人は、実の妹がシェメウに嫁いで行ったことで、激しく苦しんでいました。
 誰かを救おうとするために、別の誰かを犠牲にする。
 最善の方法はいつもあるわけではなく、よりマシな方法を探す以外にはない。
 それは、大神官の娘でも、王でも同じことです。
 私は、ヘセティの助けになりたいと思いました。
 そして、あの人も、私の手を求めました」
「だから、結婚したの?」
「そうね」
母は、少女のような顔で笑った。
王妃でも母でもない、ひとりの女性がそこにいた。
「そのことで、あなたにも、辛いおもいをさせてしまいましたね」
「私は平気です!」
メル・レー・トゥは、ルジェトの手を強く握った。
「私がジェア王に嫁ぐことで、苦しむ人が少しでも減るなら……」
そこまで言って、もはや事態がその程度のことで収まっていないことを思い出した。
メル・レー・トゥが嫁ぐか否かは、もう関係ない。
ジェアは、恐怖の魔法でメルを蹂躙している。
母子は沈黙した。

「メル・レー・トゥ」
母が、最初に口を開いた。
「デペイさまを許してあげてね」
突然、今までの話とは違うことを言い出す。
「あの方は、かわいそうな方なの。
 ご自分の気持ちの持って行きようを、知らない方なのよ」
お父さまは『あの人』で、叔父上が『あの方』?
「あの方が、あなたのことを思ってくれる気持ちは、本当。
 あなたをシェメウへやるのは間違っていると思ってくださったのだわ。
 ……そして、私のこともね」
母は、まぶたを半分閉じた。
長いまつげの影が、頬の上に網目模様を作る。
メル・レー・トゥから視線を逸らし、独り言のように小さくつぶやいた。
「私は、あの方のお気持ちを知っていた。
 あの方が、私を必要としてくださることも。
 けれど、あの方のことだけを想って生きて行くことはできなかった。
 私は、苦しむ人々のために戦いたかった。
 ヘセティこそが、共に戦う仲間だった」
メル・レー・トゥは背骨に雷が落ちたような衝撃を受けた。
母の横顔は、槍を構える兵士の鋭さを持っていた。

母子は黙って歩き続けた。
握りあった互いの手と手から、言葉にはならない強く激しい意志がやりとりされた。
やがて、母は立ち止まり、優しい微笑みをメル・レー・トゥに向けた。
つないでいない方の手を、彼方へと差し延べる。
「墓の谷です」
王女は、母の指し示す先を見た。
荒涼とした岩場の間に、黒い霧がよどんでいる。
不思議と、怖いとは思わなかった。
母の手を強く握り、そして放す。
「お行きなさい、メル・レー・トゥ。
 最善の方法など、どこにもありません。
 あなたも私も……もしかしたら、朱鷺でさえ、自分ができることをするしかないのです。
 戦いなさい」


その言葉を背中に受けて、メル・レー・トゥは母と別れた。
たった独りで、切り立った岩場に足を踏み入れた。
よどんだ黒い霧の中へ。
そこは、確かに谷というにふさわしい。
地底へ向けて、緩やかな傾斜が続いている。
いよいよ霧の中に入り込むと、悲鳴と泣き声が聞こえてきた。
声の主は見えない。
ただ、幾重にも幾重にも、悲しみの声が渦巻いている。
ハモンの王は、ここが悪魔の住む世界とイアルの野との境目だと言った。
この声は、イアルに入れず朽ちたバァ(魂)たちの叫び声なのか。

一歩一歩、岩盤を踏みしめているつもりだが、なぜか足元がおぼつかない。
黒い霧がまといついて、体全体が重く感じられる。
岩盤の裂け目から、蝿がわき出て、柱を作っていた。
激しい腐臭が鼻をつく。
腐った魚の汁の中に、どっぷりつかっているような心地がした。

それでも、メル・レー・トゥは歩き続けた。
ハモンの剣を手に入れるために。
剣の番人がどこにいるのかはよくわからなかったが、進み続ければ出会えるような気がしていた。
番人はバァ(魂)を食らうという。
ならば、メル・レー・トゥ自身がエサではないか。
「番人よ、来るがいい」
両手を握りしめ、戦いの時を待った。

しばらく歩くと、いっそう激しい悲鳴が聞こえてきた。
黒い霧を引き裂くような、甲高い叫びが、切れ目なく続いている。
メル・レー・トゥは、これが番人に食われるバァ(魂)たちの断末魔なのだと直感した。
薄暗がりの中を急ぐ。
果たして、直感は正しかった。

霧の切れ間に、その化け物は見えた。
メルの塔でジェアが行き着いた部屋に描いてあった化け物の絵に似ている。
全体の大きさは、霧のためによくわからない。
黒いもやの中から、ねじれた角や毛むくじゃらの腕らしきもの、うねる蛇の頭をつけた尾らしきものが見える。
何種類もの動物をバラバラにして、めちゃくちゃに継ぎ合わせたような奇怪な姿だ。
刃物のような爪の生えた指らしき部分で、ひっきりなしに宙を掻いている。
いや、宙ではない。
なにかを捕まえている。
爪が閃めく度に、悲鳴があがる。
番人の頭上には、白い光の筋があった。

……あれは、なんだろう。
メル・レー・トゥは、後ずさった。
光の筋と見えたのは、うっすらと光る鳥の形をしたものたちだった。
その鳥たちが、上から絶え間なく降ってくるので、筋のように見えるだけだ。

「これは、カァだ」

メル・レー・トゥの疑問に答えるかのごとく、低い声が響いた。
羽虫のうなりに似た音。
それがなんとか人間の言葉らしく聞こえる。
ねじれた角が動いた。
「そこのバァ(魂)。
 なぜ、こんなところにいる?」


                        

第二十五回・終わり


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