剣 Shotr Stories
 [ 最終回 ]


メル・レー・トゥは、露台に並んだ十本のおぞましい石柱を見た。
半壊したメルの塔の脇で朱鷺が見せてくれた光景と、寸分違わない地獄が拡がっている。
柱頭に掲げられた見るも無惨な人体のなれの果て。
こちらを向いているのは、いずれも日々言葉を交わしていた顔ばかりだ。
ジェアは、どういうつもりでこんなことをするのか。
私をおびき出すにしても、もっと別のやり方がありそうなものではないか。

『ハモンの剣』と呼ばれる紅玉石の板を手に入れた後。
メル・レー・トゥは朱鷺によって墓の谷から現世へと戻された。
実を言うと、その過程はよく覚えていない。
黒い霧を引き裂いて舞う白銀の翼をひたすら追いかけていたら、いつの間にかメルの塔へ戻っていた。
魔法を得たジェアが飛び去った直後の時間に、戻されたような気がした。
イアルの野に行ったことは、夢だったのか。
そう思ったが、手にはしっかりと『ハモンの剣』を握っていたのだった。

その後は、ひたすらメルの都へ戻るのみだった。
朱鷺は、メル・レー・トゥに考える暇も与えず、長い首を都の方角へ向けた。
メル・レー・トゥは、ふたつの魔法を握りしめて、朱鷺の後を追った。

都に入ると、異様な熱狂が渦巻いていた。
手近な人を捕まえて訊くと、広場でおぞましい処刑が始まろうとしているのがわかった。
メル・レー・トゥは手足と耳につけていた黄金の飾りを外した。
広場へ向かう人の中から、自分と似た背格好の少年を選び、金の飾りを押しつける。
代わりに、少年の服とカツラをもらって、素早く身につけた。
そうしている間も朱鷺は飛び続け、広場の方へぐんぐん向かっていく。

晒されている父の姿が目に入った時。
朱鷺は高く舞い上がった。
カスタネットの声で啼く。
……怒れ、メル・レー・トゥ。
  『ハモンの剣』は、怒りを糧とする。
  そなたの強い心で、破壊の力を制せ。
それだけ言い残して、導き手は上空に消えた。
メル・レー・トゥは父の傍らで腕を組んでいるジェアの前に躍り出た。
最前列のヤジ馬をかきわけて、露台の上に立つ。

「来たか」
ジェアは、青い瞳をこちらへ向けた。
周りにいた兵士たちが色めきたつ。
「メル・レー・トゥ……!」
父がかすれた声をあげた。
縛められた将軍や書記たちも、一斉にこちらを向く。
メル・レー・トゥはカツラを投げ捨てた。
右手に『ハモンの剣』、左手に『息吹(トゥ)』を握りしめ、強い声で宣言する。
「父上とメルの国を返してもらおう!」

ジェアの口の端が少しだけ持ち上がった。
やがて、整いすぎた顔全体に邪悪な笑みが拡がる。
どよめく群衆の中、ジェアらしからぬ大きな笑い声が放たれた。
「トゥよ……それでこそトゥよ。
 おまえが正面から立ち向かってくるのを待っていた。
 俺にとって敵と言えるのは、ただおまえだけ。
 どちらの魔法が勝つか、決しようではないか!」

ジェアは、長い髪を翻して後ろに跳びすさった。
右手に銀の輪を握っている。
青い瞳が邪悪な赤い光に変わると、銀の輪が同じ色を帯びて光った。
蝿の羽音のようなうなりが辺りを包む。
ジェアの手から長い鎖が伸び、銀の鎧をまとった魔法兵士たちが現われた。

メル・レー・トゥも右手の紅玉石を高くかざす。
迷いはなかった。
赤い石は、運命に翻弄されるばかりだった少女を戦士に変えた。
魔法の力が脊椎を駆け登る。
真紅の光が右手を包んだ。
その輝きは巨大な剣となって、メル・レー・トゥの手に吸いついた。
「ハモンの剣……!」
紅玉石は初めて名前通りの姿となった。
血と同じ色に燃えたつ刃。
メル・レー・トゥの背丈と同じくらいの長さだが、重さはほとんどない。
荒れ狂う魔法の力が、右手から全身に満ちるようだ。
凶々しい赤は、その力が邪悪かつ凶暴であることを示している。
墓の番人が食らい続けてきたあらゆる悪しき感情が紅蓮の炎となって、メル・レー・トゥの心を侵略しようとしていた。
……もしこの力に飲み込まれるならば、私は狂った魔物になる。
メル・レー・トゥはそう直感した。
『ハモンの剣』が危険な武器だと言われていたのは、こういうことだったのか。
……それでも。
メルの王女は右腕を曲げ、柄を額の前に構えてジェアをにらんだ。

「それがおまえの武器か」
ジェアは勝ち誇った顔でにらみかえしてきた。
「剣ひと振りで何ができる」
浅黒い腕が弧を描く。
銀の魔法兵士たちは、首につけた鎖をうねらせながら、こちらへ殺到してきた。
「メル・レー・トゥ!」
と、父が叫ぶ声がした。
だが、魔法兵士たちの鎧が鳴る音でかき消され、なにも聞こえなくなった。
無数の兵士たちが押し寄せてくる。

メル・レー・トゥは気合いを込めてハモンの剣を振るった。
まず、横薙ぎに一閃。
赤い刃が銀の鎧を斬った。
最初の魔法兵士が分断される。
上半身と下半身がまっぷたつに割れた。
メル・レー・トゥ自身も驚く威力だ。
続いて刃を返し、斜めにひと振り。
ふたりの魔法兵士が輪切りになった。
「……なぜ……?」
メル・レー・トゥは剣の柄を握りしめた。
刃が勝手に動く。
確かに、最初の一刀は己の意志によるものだった。
だが、二の太刀からは意図しない動きだ。
これはいったい、どういうことか?

メル・レー・トゥの戸惑いなど知るよしもないジェアは、苦々しげに眉を痙攣させた。
兵士たちを束ねる鎖を握りしめ、しばし呆然となる。
無敵の魔法兵士たちが、十四歳の少女に次々とブッた斬られてゆくのだから。
「やはり朱鷺は新しい魔法を授けていたか」
ジェアは鎖の束をひと振りし、兵士たちをけしかけた。
同時に、人間の兵士たちにも合図する。
彼らは敵味方の区別がない魔法兵士から避難するため、露台の下に降りていた。
王の合図を受けながらも、恐れて動かない。
ジェアは舌打ちし、冷たい声で言い放った。
「尻込みする者には、魔法兵士を向ける!」

メル・レー・トゥは剣に振り回されながら、魔法兵士を斬り続けた。
ハモンの剣は獲物を求めて狂ったように旋回する。
すると、銀の鎧に混じっていくつかの鉄の鎧が見え隠れした。
シェメウ兵が修羅場の中に紛れ込んでいる。
人間の兵士たちは槍を振りたて、こちらへ突進してきた。
だが、途中で魔法兵士に捕まって引き裂かれてしまう者もある。
ハモンの剣は血のにおいにひかれてか、更に旋回の速度を上げた。
どちらかといえば、魔法兵士よりも人間に向かって行こうとする。
「だめだ!」
生身の人間を前にして、メル・レー・トゥは絶叫した。
剣は止まらない。
魔法兵士は襲いかかってくる。
人間の兵士も、必死の形相で槍を突き出してくる。
「こちらへ来るな!」

その時。
一筋の矢が広場から露台へ打ち込まれた。
その軌跡はジェアに向けて伸び、左側の鎖骨を射抜いた。
「む!」
ジェアは左手に持っていた銀の輪を取り落とし、そのまま仰向けに倒れた。
石の露台に輪がぶつかる金属音と共に、魔法兵士たちが忽然と姿を消す。
赤く光っていた瞳が青に戻り、微かに痙攣した後、瞼がおりた。
シェメウ兵たちは、しばらくの間きょろきょろしていたが、主が倒れたのを見て、そちらへ駆け寄った。
それは、赤い剣から逃げるためにも有効な行動だった。

戦うべき相手がいなくなると、ハモンの剣もおとなしくなった。
赤い刃は小さくなって、元の紅玉石に戻る。
メル・レー・トゥは大きく息をつき、父の方へ駆け寄ろうとした。

「メル・レー・トゥ様!」
後ろから、聞き覚えのある低い声が響く。
振り返ると、白い麻布の日よけを被った男がいた。
日よけの布は不自然に鋭角なひだを作っている。
肩先についた留め金の脇から、黒い鉄の鎧がのぞいていた。
「そなた、エク・エン……」
「お助けに参りました。
 さあ、お早く」
叔父の部下は、メル・レー・トゥの腕をつかんだ。

広場の一角から、続々と矢が飛んでくる。
シェメウ兵たちが戦意を喪失しているのは、誰の目にも明らかだった。
統率がとれなくなって、民衆たち同様逃げまどう。
少数の者たちが、負傷したジェアを担いで、露台から撤退した。
それを追いてるように矢が降り注ぐ。

矢の雨は、メル・レー・トゥとヘセティ四世の間にも降ってきた。
このままでは父を助けることができない。
メル・レー・トゥは、それでも父の方へ走ろうとしたが、エク・エンの大きな手がそうさせてくれなかった。
「放せ、父上が……!」
「なりません、早く逃げるのです!」

*      *      *

広場は混乱を極めていた。
みっしりとひしめいていた民衆が、我先に逃げようとしてぶつかりあっている。
脚がもつれて倒れたひとりが、別のひとりを巻き込み、それが連鎖して人の雪崩を起こす。
誰もが混乱し、床の上にぶちまけた豆のように、てんでバラバラな方向へ散らばろうとしていた。

その中に紛れて、デペイと部下たちはひとかたまりになっていた。
広場に面する建物の屋根に陣取っている。
五人の男たちが露台に向かって弓を構えていた。
「ジェアは適当に追え。
 どうせ矢玉ごときで倒せる相手ではない」
デペイは弓兵の背中越しに戦況を伺い、恐ろしく冷静に指示を下していた。
「狙うのはヘセティだ。
 混乱に乗じて、ヘセティを葬れ」
兄上さえいなければ、メル・レー・トゥの枷はなくなる。
兄上がいるから、ジェアの陽動に乗せられたりする。
兄上が死ねば、メル・レー・トゥは私に頼るようになる……
デペイは親指の爪を噛んだ。

弓兵たちは次々と矢を放った。
ところが、少しずつ風が出てきて、矢が流されるようになってきた。
最初の矢は過たずジェアに一撃を加えたが、次の矢からはどうにもうまく飛ばない。
そうこうするうちに、メル・レー・トゥが矢の軌道上に移動してきた。
エク・エンに引っ張られながらも、ヘセティの方へにじりよっている。
弓兵たちは、とうとう矢を射るのを止めた。

「エク・エンめ、なにをしている!」
デペイは、やきもきしながら露台をにらんだ。
エク・エンは片腕で不器用そうにメル・レー・トゥを持ち上げようとしている。
子山羊より軽そうな少女を担ぐのに、なにをもたもたしているのだろう。
「エク・エン様は、お肩の傷が痛むのだろうか」
弓兵のひとりがぼそりとつぶやく。
同情的な響きを感じて、デペイはなぜか腹が立った。
「こんな時に。
 役に立たぬやつめ」
思わず悪態をついてしまう。
つぶやきをもらした弓兵が、ふとこちらを振り返った。
少し目を見開いている。
四方を白目に縁取られた瞳の動きには、不信感が看て取れた。
デペイはますます気分がいらだって、不遜な部下をにらみ返す。
弓兵は、あわてて目をそらした。

露台の上では、エク・エンがどうにかこうにかメル・レー・トゥを担ぎ上げていた。
暴れる少女を右腕だけで押さえつけて、矢の軌道から外れようとしている。
「よし、狙え!
 ヘセティを撃て!」
デペイは普段なら決して出さないような大声をあげた。
弓兵たちが弓に矢をつがえる。

「ちょっと汚いんじゃない?」
突然、足下から緊張感のない声がした。
デペイの前にいた弓兵がふたり、なにもないのに滑って転ぶ。
並んでいた他の部下も、ぶつかられてよろめいた。
「なに……!」
デペイは、あとずさりする。

転んだ弓兵たちの足首には、石の重りをつけた縄が絡んでいた。
縄の先はデペイたちが足場にしている屋根から下の方へ垂れさがっている。
「よッ」
と、軽いかけ声と共に、背の高い男が屋根の上に飛びあがってきた。
ひょろ長い手足、伸び放題の髪の毛と無精ひげ、長い顔。
大きな口の端からは、犬のようにとがった歯がのぞいている。
「ここから撤退してもらおうかな?」

*      *      *

メル・レー・トゥは、エク・エンの肩で暴れていた。
このままでは父も家臣たちも助けることができない。
必死になって抵抗したが、一度担ぎ上げられてしまうと、大人の男の腕はあまりにも強すぎた。
こうなったら、『ハモンの剣』を使うしかないのか。
しかし、生身の人間を相手に狂気の武器を?

躊躇していると、後ろから獣の咆吼が聞こえてきた。
次の瞬間、腹に強い衝撃が走る。
帯を思い切りひっぱられて、そのまま宙づりにされたような心地がした。
エク・エンの腕がはずれて、メル・レー・トゥの体は空に浮く。
我に返ると、いつの間にか腹這いになって露台の上に寝かせられていた。
頭の上で、
「うぅ」
と、獣のうなる声がする。
「セクメト!?」
メル・レー・トゥは跳ね起きた。

雌ライオンがエク・エンに飛びかかる後ろ姿が見える。
百獣の女王の強い前足が、兜をつけない頭を横ざまになぐりつけた。
鉄の鎧が露台にぶつかり、派手な音をたてる。
エク・エンは左肩をしたたかに打ちつけて、少しうめいた後、動かなくなった。
セクメトは猛り、鎧のない喉元に牙を立てようとする。

「おやめ、セクメト!」
メル・レー・トゥは強い声で制した。
しかし、怒る雌ライオンはエク・エンの胸を踏みつけたまま、やめようとしない。
顎と鎖骨の間に鼻面を突っ込んで、急所を探っている。
メル・レー・トゥは急いでセクメトの首をつかみにいった。
聞き分けのないライオンは、嫌がって不機嫌なうなり声をあげる。

「そんなもん食うと、腹こわすぞ、姉ちゃん」
ふいに、男の声がした。
聞き覚えのある、そらっとぼけた響きだ。
セクメトが、びくりとして首をあげる。
処刑柱の陰から、細長い人影がゆらりと現われた。
「セケム!」
王女は目を大きく見開いた。

「びっくりすんのは後、後」
セケムは、相変わらずのトボケた調子でしゃべりながら、素早く処刑柱に取りついた。
小さな刀で、まず将軍の縛めを断ち切る。
「はい、あんた一番強そうだからね。
 他の人、助けてあげて。
 ……姉ちゃんも手伝えよ!」
セケムが人間を扱うような調子で言うと、セクメトは、すっぱりエク・エンをうち捨てて、人々を縛っている縄をかじり始めた。
主人である王女の言うことは、ちっとも聞かなかったくせに。

「ほら、姫様!
 ぼさっとしてないで、王様を助けなよ!」
「あ、ああ、うん……そうだ!」
セケムの勢いに圧されて、メル・レー・トゥは父の側に駆け寄った。
なにがなんだかわからない。
しかし、今は考えている場合ではない。

父は、手足を別々に縛られて、蜘蛛のような格好で体を開いている。
メル・レー・トゥは、右手からひとつひとつ、縄を解きにかかった。
結び目はきつく、なかなかほぐれない。
小刀を用意してこなかったことを悔やんだ。
両腕の縄をやっと解いた時、大袈裟なため息が頭の上から降ってきた。
「あー、もー。
 遅いよ、姫様」
メル・レー・トゥの体を後ろから抱くように、長い腕が伸びてくる。
セケムの大きな手が王の足首をつかみ、二つの結び目を次々と断ち切った。
「走れますかい、王様?」
ヘセティ四世は、やつれきっていたが、落ち窪んだ眼窩の奥にはまだ力強い瞳が光っていた。
セケムの問いかけに大きくうなずく。
「なら、いいや」
セケムは犬歯を見せて笑い、立ち上がって将軍の方を向いた。
「みんな、バラバラに逃げるんだ。
 南の門まで行けば、ウネベトさんとこの兵隊が待ってる。
 男は女を守ってやれよ。
 王様と姫様は、俺に任せろ!」

*      *      *

シェメウ兵たちは、昏倒した主を抱えて王宮まで撤退していた。
広場から突然飛んできた矢はジェアの左鎖骨を砕き、肩の筋肉で止まっていた。
急いで医師たちが呼ばれたが、矢を抜くことができない。
無理に引っ張ろうとすると、砕けた鎖骨が返しとなって、傷口を広げてしまうのだ。
医師は傷を切開するために、いくつかの刀を用意させた。
ミイラを作る際に使う、曲った刃のついた道具だ。
数人の医師たちが刃を熱し、傷口に近づけた時。
ジェアは、青い目をカッと見開いた。

「トゥ!」
王女の名前を短く叫んで、跳ね起きる。
手術刀を持った医師が転げた。
ジェアは素早く辺りを見回す。
「……どこだ、ここは?」
転げた医師が、おろおろと説明する。
「陛下は矢玉に当たったのです。
 どうぞ、お動きにならないでくださいませ。
 傷が大きくなります」
「傷?」
ジェアは左肩に目を落とした。
鎖骨から、まっすぐに棒がのびている。
「ふん」
逆手に持ち、力を込めて引き抜こうとすると、医師たちがわめいた。
「なりません!
 矢を引けば、骨が飛び出します。
 お手が動かなくなりますぞ!」
「では、どうしろというのか」
「刀で少しずつ傷を開き、矢尻を取り出し……」
「そんな時間があるか!
 トゥが逃げてしまう!」
ジェアは怒鳴った。
矢を持ち替えて、更に深く己が体にさし込む。
一筋の血しぶきが、肩の前と後ろから飛び散った。
矢尻は、背中の方に突き抜けている。

「……抜け」
ジェアは眉ひとつ動かさずに医師たちを見やった。
医師たちは蒼白となり、もはや何も言わず、命令に従った。
矢の軸が抜かれ、手早く包帯が巻かれると、ジェアは傷ついた方の手を握ったり開いたりした。
痛みを無視した仕草は、見ていた者たちを震えあがらせる。
ジェアは鋭い声で言い放った。
「四方の門を閉じよ!
 トゥを逃がしてはならぬ!」

そして、自らもまた王宮の外へと駆け出ていった。

*      *      *

メル・レー・トゥとヘセティ四世は、セクメトの尾を追いかけながら細い路地を走っていた。
すぐ後ろでは、セケムが追手に目を配っている。
大きな通りは混乱した民衆で埋め尽くされ、とても移動することができない。
セケムがいつも使う道、日干しレンガの民家の屋根を上ったり降りたりするノラ犬の道を通って、南の門まで急いでいた。

「そなた、今までどうしていたのだ?」
メル・レー・トゥは、走りながらセケムに問いかけた。
セケムはトボケた調子で問い返す。
「姫様こそ、どこへ行ってたのさ」
「私は……イアルの野に行っていた」
「イアルの野?」
「死者の国だ」
「ハハッ」
セケムはバカにしたように笑った。
「姫様にしては、おもしろい冗談、言うじゃない」
「冗談ではない。
 『ハモンの剣』を取ってきたのだ」
「へ〜え」
気持ちの入らない相づち。
「信じていないのか?」
「いや、信じますよ。
 そういう夢を見てたんでしょ?」
「夢じゃない!」
王女はムキになった。
この男といると、どうしても怒りっぽくなる。
ケンカをしている場合ではないのだが。
セケムは楽しそうに大きな口を横に引っ張って、両側の犬歯を見せた。
王女をからかう、いつもの顔だ。
ワセトの町を目指して、砂漠を渡ったことを思い出す。
危機的状況下にもかかわらず、なぜか楽しかった。
だが、ワセトについた時には……

王女は、セケムがシェメウの間諜であったことを思い出して、口をつぐんだ。
そうだ、この男は。
私を騙していたのではなかったか。

王女が黙ると、父王がセケムに質問した。
「そなたは何者か?」
王はやつれていたが、鍛えた体は強靭だった。
走りながらの声なのに、威厳がある。
「さあ……何者なんでしょうねえ」
セケムはトボケた。
「ただのノラ犬……薄汚いノラ犬でさ」
王女に名乗った時と同じ、自嘲を込めた物言いをする。

「そのような言い方は、よくない」
ヘセティ四世は、短く言い放った。
セケムは細い目を見開く。
王は力強い声でまた言った。
「卑しむべき人間など、どこにもいない。
 どのような境遇にあっても、誇り高くあるべきだ。
 己が己を卑しんではならない」
セケムは追手をうかがうようなフリをして、後ろを振り返った。
王の顔が見えない位置まで下がる。

奥歯ですりつぶすようなつぶやきが、王女にだけ聞こえた。
「……へへ、おんなじようなこと、どっかで言われたっけな……」
王女はセケムの横顔を盗み見た。
額の真ん中にしわを寄せ、濃い眉毛が一本につながって見える。
その下には、やりきれない光を宿した細い目があった。
王女はセケムの代わりに答えた。
「父上、この男はセケム(犬)という名前なのです。
 変わった名なので、いつもこのように言ってふざけます」
「そなたとは知り合いか?」
「はい、何度も私を助けてくれました。
 恩人です」

……恩人です。
王女は、ためらいなくその言葉が出てきたことに、自分でも驚いた。
セケムもまた驚いたようで、こちらを向いて目をしばたたいている。
クセを含んだトボケ顔が、無垢な少年の顔になったような気がして、王女は少し微笑んだ。
セケムは、細い目に今まで見せたこともない戸惑った色を浮かべて、横を向いた。

気まずくなりかけた時、一同は袋小路に行き当たった。
セケムは、ごまかしの口実が出来たとばかり、とぼけた声に戻ってセクメトに言った。
「跳べ、姉ちゃん」
セクメトは地を蹴り、行く手を塞いでいる日干しレンガの民家に飛び乗った。
「こんなところを?」
ヘセティ四世が意外そうにセクメトの方を見上げる。
「兵隊は、こんなとこが通れるなんて思っちゃいませんからね。
 王様、あがれますかい?」
「心配ない」
ヘセティ四世は、壁のちょっとしたでっぱりに手をかけて、体を持ち上げようとした。
「……む!」
ところが、長い監禁生活に痛めつけられた筋肉は、思うように動かなかった。
考えてみれば、ここまで走っていることさえ奇跡のようなものだろう。
セクメトと同じような筋力を期待するのは無理だ。
セケムは、壁の前にひざをつき、王女に手招きした。
「姫様、先に上がってくれ」
やたらと幅の広い肩をぽんぽんと叩く。
王女は、セケムの言いたいことがすぐわかって、うなずいた。
軽く助走をつけ、骨張った肩に飛び乗る。
セケムは絶妙なタイミングで立ち上がり、王女は北方の曲芸師よろしく屋根に上がった。

父王は、姫のおてんばぶりにあきれた笑みを浮かべた。
王女は片腕をセクメトの首に絡め、もう片方の手を父へと差し伸べる。
セケムは肩の上に王を乗せて、屋根に上がるのを手伝った。

一同は、屋根の上から南の方を見渡した。
セケムは額の前に手をかざし、二三度舌を鳴らす。
「ちっちっ、南門までは、まだ遠いね」
「そういえば、そなた。
 さっき、ウネベトがどうとか言っていたな?」
王女は聞いた。
「まあね」
セケムは屋根の上を歩き始めながら説明した。
「姫様を探していたら、あの太ったおばちゃんに会ったのさ。
 あの人、王妃様と王子様たちを匿ってんだよ」
「なんと!」
王が目を丸くする。
「……もはや殺されたかと思っていた……
 して、王妃たちはどこに?」
「ウネベトさんの里でさ。
 実家のオヤジさんが、ちゃんと守ってくれてますよ」
「そうか……」
ヘセティ四世は天を仰いで大きく息をついた。
「今も、ウネベトさんとこの兵隊が、南門の外で待ってまさァ。
 王様や姫様を助けるためにね」

セケムは、説明を終えると、また舌打ちした。
「この道を選んだのは、間違いだったかな……」
路地より高い屋根からは、行く手にあるものがよく見える。
混乱して駆け回る民衆たちに混ざって、シェメウ兵たちが移動しているのがわかった。
兵士たちは五六人単位で隊を作り、何かを探すようなそぶりで動き回っている。
探している何かとは、当然、王女と王だ。
身を低くして屋根伝いに動けば、気付かれずにすれ違えるかもしれないが、何個所かはどうしても路地へ降りなければならないところがある。

「……やってみるか」
セケムはボサボサ頭に手を突っ込んでかきまわす。
王女は、何気なくその横顔を見た。
妙に無表情で、内面が覗い難い。
考え込むように、何度か瞬きしている。
ふと、長い顔がこちらを向いた。
王女が見ていることに気づいたのか。
セケムは、尖った犬歯を見せて、いつものトボケ笑いをした。
だが、細い目には深いあきらめのようなものが宿っているように見える。
「セケム……」
王女は怖くなって、思わず名前を呼んでみた。
セケムはフザケた節回しをつけて、歌うように言う。
「平気、ヘーキ。
 シェメウ兵なんか、怖くない。
 俺さまがついてるよん。
 ……さあ、行こうぜ!」

しばらく屋根伝いに進んだ後、セケムは降りるべき路地を示した。
一同は地面に飛び降り、慎重に南門を目指した。
先頭にセクメト、次に王女、王、セケムの順だ。
雌ライオンは体を低くし、敵の気配を探りながらゆっくりと歩を進める。

ひとつ先の路地を、五六人の兵士たちが、急ぎ足で歩くのが見えた。
一同は、建物の壁にぴったりと体をつける。
灼熱の太陽が作り出す黒い影の中へ、溶け込みたいと願って。
四つの息を潜め、シェメウ兵たちが行き過ぎるのを待った。
その時。

「う!」
セケムが突然、低いうめき声をあげた。
王女は素早く振り返る。
肩から麻の日よけ布を被った男たちがいた。
先頭の男は、手に短い棍棒を振りかざしている。
セケムは長い体を折り曲げ、頭の後ろを押さえていた。
殴られたのだ。
「卑怯な!」
王女は男とセケムの間に割って入った。
棍棒を振り上げた男の動きが、一瞬止まる。
その顔を認めると、王女もまた止まった。
「エク・エン!」

広場で昏倒していたはずの叔父の部下が、またしても目の前に立ちはだかっている。
王女は怒りを覚えた。
「よせ……姫様……」
セケムのかすれ声に制されたが、王女は両手を広げてエク・エンをにらんだ。
「なぜ、こうまでして私を捕まえようとする?
 叔父上の命令か?」
王女が怒ると、セクメトが脇に来て威嚇の姿勢をとった。
エク・エン以下、男たちは、じりりと後退する。
王女はセクメトを止めなかった。
雌ライオンは、主人の怒りをそのまま引き継ぐように、低いうなり声をあげる。

「止まれ、セクメト!」
少しうわずった男の声がした。
猛っていた雌ライオンは、片方の前足を踏み出そうとしたまま、固まる。
声の主が路地の陰から出てきたとき、セクメトは鼻にシワを寄せて、困ったようなうなりをもらした。
「……デペイ」
ヘセティ四世がつぶやく。

デペイ叔父は、相変わらず飾りのない書記のようなかっこうをしていた。
血色の悪い顔が、いつもよりいっそう青ざめている。
学者らしい細長い腕をこちらへさしのべて、
「メル・レー・トゥ」
と、呼んだ。
「こちらへおいで。
 君を助けに来たのだよ」
薄い唇が震えている。

セクメトは困って耳を後ろに倒した。
なにしろ王女にセクメトを与えたのはデペイだ。
まだ猫と見分けがつかないくらい小さな時分から、デペイにはかわいがられている。
雌ライオンは腹這いになって頭を地面につけてしまった。
房つきの尾がパタパタ動いて、セクメトなりに悩んでいるのがよくわかる。

デペイはエク・エンたちを押しのけ、ゆっくりとこちらへ近寄って来る。
王女はセケムをかばいながら、後ずさりした。
ヘセティ四世が、すっと歩み出る。
「デペイ。
 そなたは何をしようとしているのか?」

メルの王は、弟にまっすぐ顔を向けた。
やつれてはいるが、威厳は少しも損なわれていない。
伸びたひげや髪が、かえって獅子のたてがみのようなすごみのある威風を放っている。
王としては、聞きたいことが山ほどあるはずだ。
シェメウに囚われた後、デペイは王を無視した。
メル・レー・トゥは叔父のことは全く話さなかったが、聡明な父が弟の行状を洞察しないはずがないことはわかっていた。

「兄上、あなたこそ何をしているのですか?」
デペイは上目遣いに王をにらんだ。
ワニという意味の名前にふさわしく、水面ごしに獲物をねめつけるような冷たい目だ。
「シェメウの機嫌を伺い、メル・レー・トゥを人身御供に出し、あげくに都を蹂躙されて。
 生き恥をさらしているのはなぜですか?」
痩せた肩が震えている。
薄い唇には奇妙な笑みが浮かび、病的にさえ見える。
メル・レー・トゥの大好きだった叔父上は、どこにもいない。
このワニ男に飲まれてしまったのだろうか。
「おいで、メル・レー・トゥ。
 この男は、もはや王ではない。
 おまえのことを守れる男ではないのだよ」
メル・レー・トゥは、どう反応していいかわからず、叔父の顔を見つめた。

イアルの野で母から聞いたことを思い出す。
……あの方は、かわいそうな方なの。
    ご自分の気持ちの持って行きようを、知らない方なのよ。
哀れみを含みつつ、曖昧に響いた母の言葉。
気持ちの持って行きようを知らないとは、どういう意味なのだろう。
……あの方が、あなたのことを思ってくれる気持ちは、本当。
『思ってくれる』とは?

「叔父上は、私を助けようとしてくれているのですか?」
メル・レー・トゥは、まっすぐに訊いた。
「そうだよ、メル・レー・トゥ。
 私は約束したんだ……ルジェトに」
デペイはこちらへ手を伸ばしてくる。
王女はその手の届かぬ位置まで後退した。
「私を助けようとしているのに、どうしてこんなことをするのですか?」
「こんなこと?」
デペイは、「理解できない」と言いたげに肩をすくめた。
「私は、叔父上も父上も愛しています。
 私を助けたいと思ってくださるなら、まず父上を助けてください」
「馬鹿な」
デペイは口元をゆがめた。
奇妙な笑みが拡がっている。
「この男は、君を苦しめる」
「私は、苦しんでいません。
 いろいろな困難に出会いましたが、父上のせいではありません」
「それは、君が優しすぎるからそう思うんだ。
 状況をよく見たまえ。
 この男は、君をシェメウへやった。
 それだけじゃない。
 ルジェトも殺した……!」
「母上は、殺されたのではありません!」
メル・レー・トゥは強く言い放った。
おどおどしている叔父の目を真っ正面からとらえて、叱責する。

「母上は熱病で死んだのです。
 それは、誰のせいでもありません。
 病の中にありながら、それでも人々のためにと働き続けたのは、母上の意志です。
 母上自身が望んだことで……幸せだったと思います」
「幸せ?」
デペイがうわずった声で鸚鵡返しした。
「兄上に働かされたのが幸せ?」
「働かされたのではありません。
 働いたのです。
 父上と一緒に」
メル・レー・トゥが言うと、デペイは両手で頭を抱えた。
整ったカツラの中に手を突っ込んで、激しくかきまわす。
「わからない……わからない……!」
だだっ子のようにつぶやいて、よろめいた。
メル・レー・トゥは叔父に近寄り、その肩に手を置いた。
「叔父上」
優しく呼びかけて、うつむいた顔をのぞき込む。
「まずは都を出ましょう。
 父上と三人で、都を取り戻す方法を……」
「うわあっ!」

デペイは急に叫び声をあげた。
細い腕を振り回して、メル・レー・トゥの手を払いのける。
「どうしてそんなことを言う?
 どうしてそんな目で私を見る?」
デペイは襲いかかるような勢いで、メル・レー・トゥの両肩をつかむ。
穏やかな叔父のどこにこんな激しさがあったのか。
強い力で揺さぶられ、メル・レー・トゥは両手を突っ張った。
叔父は叫ぶのをやめない。
「どうして、兄上を選ぶのか!
 私より兄上を……兄上なんか、どこがいいんだ!
 ルジェト!」

デペイは錯乱していた。
ルジェトの名を叫びながら、メル・レー・トゥを揺さぶり続ける。
「血迷ったか!」
ヘセティが割って入り、弟の手を打つ。
胸の中にメル・レー・トゥをかばい、王の目でにらみつけた。
デペイは、獣のように吠えながら、兄の首につかみかかった。
「あなたがいるから、いけないんだっ!」

デペイは十本の指を全て兄の首にかけ、激しく締めつけた。
爪が皮膚に食い込み、血がにじみ始める。
ヘセティはメル・レー・トゥを放して、弟の腕に手をかけた。
普段の王であったなら、弟のごとき痩せた男にひけをとることなどない。
だが、監禁生活で痛みきった体は、格闘に耐えなかった。
気道を締めあげられて、魚のように口を開け閉めするしかない。
「叔父上、やめて!」
メル・レー・トゥは、デペイの腕に手をかけた。
すると。

「このッ!」
短い気合いが響いたかと思うと、デペイが仰向きに倒れた。
少し前までうずくまっていたセケムが立ち上がっている。
ノラ犬は牙をむいて、倒れたデペイの顎に拳をブチ当てようとした。
呆然としてことの成り行きを見守っていたデペイの部下たちが、慌てて動き出す。
数本の棍棒が、一斉に振り上げられた。
「上等だ、まとめてたたんでやるぜ!」
ノラ犬が吠えた時。

「いたぞ、メル・レー・トゥだ!」
路地の向こうから、声があがった。
鉄の鎧をまとったシェメウ兵たちがなだれ込んでくる。
槍を手にした男が、三人、四人、五人。
とても手に負える数ではない。

「姫様、逃げろ!」
セケムが絶叫した。
細長い手足を張って、デペイと部下たちと縺れあっている。
「でも……」
王女は立ち尽くした。
「でもじゃねェ!
 あんたはメルの王女だ!
 メルを守るって、いつも言ってたじゃないか。
 行け!
 ここは俺にまか、」

任せろ。
セケムはそう言いたかったのだろうか。
殺到するシェメウ兵の鎧の音で、それ以上聞き取ることはできなかった。
セクメトが爪と牙を閃かせて兵士たちの間に飛び込む。
一瞬出来た通路に、王女と父王は滑り込んだ。
百獣の女王の先導で、父娘は路地をすり抜ける。
セケムは後を追ってこない。
デペイと、デペイの部下たちと、シェメウ兵たちと。
大きな固まりになって、縺れあったまま。

*      *      *

王女と王とセクメトは、南門に向かって走り続けた。
距離を重ねるにつれ、王の息があがり始め、ついには走るのが困難になった。
王女は父を背負おうとしたが、十四歳の少女に大の男を担ぐことなど出来はしなかった。
「私を置いて行きなさい」
ヘセティは言った。
萎えた脚は、もう動かない。
路地にへたりこみ、日干しレンガの壁に全身を預けた。
「父上、弱気をおっしゃらないでください」
王女は父の脇に肩を差し込み、路地の奥を指さした。
壊れかけたビール壺がいくつも放置してある。
「あの壺の側へ隠れましょう」
今、動けなくとも、休めば体力が回復する。
ビール壺の側は快適ではないにせよ、シェメウ兵から身を隠すには事足りるだろう。
それに。
メル・レー・トゥは恨めしい気持ちで天を見上げた。
メルの主神、黄金のレー神が灼熱の矢を放っている。
この炎天下を走り続けるのは、消耗して当たり前だ。
夜を待つ方がいい。
セクメトの目に任せ、夜陰に紛れて南門へ向かうのだ。

そう決めた矢先。
路地の向こうで大声があがった。
「いたぞ!」

シェメウ兵たちだった。
鉄の鎧を鳴らし、槍を振り立てながら、狭い路地に殺到してくる。
雄叫びが死刑宣告のように聞こえた。
「あァ……」
と、父が嘆息する。
心の強いメル王も、さすがに絶望したのか。

王女は父を近くの壁にもたせかけた。
父は、もはや言葉をなくして哀しみと悔恨の入り交じった目でメル・レー・トゥを見ていた。
これで終わりだ。
父のまなざしはそう言っている。
だが、メル・レー・トゥはゆっくりと首を横に振った。
これ以上ないほど追いつめられていながら、なぜか静かな心持ちになっていた。
あきらめではない。
もちろん勝利の確信があるわけでもない。
ただ静かな心持ちであるとしか表現しようがないのだ。

セクメトは、シェメウ兵たちに向かって捨て身の突進を仕掛けようとしていた。
メル・レー・トゥは手のひらをわずかに動かすだけで、それを制する。
「お父様の側にいて」
雌ライオンは戸惑ったが、王女の目を見ると、承諾の印に瞬きした。
王の前で彫刻のように座る。

メル・レー・トゥは『ハモンの剣』の紅玉石を軽く握り、シェメウ兵たちの前に歩み出た。
「下がりなさい」
王女の誇りを失わない声で静かに言う。
シェメウ兵たちは槍を構えたまま、少し後ずさりした。
王女の態度に気圧されたのか。
いや、そうではない。
彼らは、背後から来る者のために、戦端を開かず待ったのだ。

「やっと見つけた」
聞き覚えのある冷たい声がした。
シェメウ兵たちが左右に割れる。
中央に出来た道を、黒い人影がゆっくりと歩んできた。
たなびく長い黒髪。
浅黒い肌。
青い瞳。
シェメウ王ジェアがついに現われた。
「今度こそ、全てを決する時だ。
 俺にとって敵があるとすれば、おまえひとり。
 この世に魔法を操るものは、ふたり要らない」
ジェアは左腕をだらりと垂らしている。
矢に当たって、そのまま動かなくなっているのだろう。
だが、隙のない気迫があるので、かえってその左腕が不気味に見える。

「あなたは、どうしてもクムトを自分のものにしたいのですね」
メル・レー・トゥは静かに問うた。
「そうだ。
 おまえは違うのだろう?」
ジェアも静かに返す。
「もちろん」
メル・レー・トゥは臆さずに一歩前に出た。
ジェアという悪しき心を前にしたからこそ、初めて認識できる。
父に、母に、ハピのほとりの農民たちに、セケムに、正気だった頃の叔父に、教わったこと。
実は、セクメトとふたり、市場へ飛び出した時から、ずっと思っていたこと。
今まで言葉にならなかった想いが、すんなりと声になった。
「国は人の集まりです。
 物品はともかく、人は誰かのものになることなどありません。
 全ての人は、自分自身以外に主を持たぬもの。
 王族がすべきことは、民のひとりひとりが安心して自分を所有できるように守ることです」
「そうか」
ジェアは整いすぎた唇にうっすらと笑みを浮かべた。
「やはり、おまえは敵だ」

その言葉が戦いの幕を切って落とした。
ジェアはおもむろに右手を持ち上げ、銀の輪で空に弧を描く。
長い髪が蛇のようにうねり、邪悪な赤い光が浅黒い体を包んだ。
蝿の羽音が辺りに満ちる。
銀の鎧をまとった魔法兵士たちがジェアの手から飛び出した。

メル・レー・トゥは、両手で紅玉石の板を包んだ。
ジェアと同じ赤い光がほとばしる。
血の色をたたえる刃が伸びた。
同時に、ふたつの声がメル・レー・トゥの耳を打つ。
……怒れ!
……戦いなさい!
ひとつは朱鷺の声、もうひとつは母の声。
それらを感じたと思うと、メル・レー・トゥの理性は消し飛んだ。
剣の力が怒涛となって、心臓へと押し寄せる。
墓の番人の叫びが、心の内側から轟いた。

そこから先、メル・レー・トゥは視野を失くした。
メル・レー・トゥがメル・レー・トゥ個人としてあるための意識は、すっかり戦場から離脱してしまった。
時間も空間も超えたところで、ジェアと何かわからないものが戦っているのを感じる。
魔法兵士たちが、赤い剣を構えた何者かに襲いかかる。
銀の鎧が何者かを埋め尽くし、見えなくなる。
ジェアは鎖の束を振り、魔法兵士たちを空高く舞い上がらせる。
銀色の塊が、都の空を浮遊した。
羽虫がエサにたかるような音がする。
魔法兵士たちはうごめき、塊の中央にある何者かを食い散らそうとしていた。

メル・レー・トゥの意識は、その塊よりも更に高いところから、戦場を見下ろしていた。
真っ白な陽光が支配しているはずなのに、なぜか場面が真っ黒に見える。
黒い舞台の中に、魔法兵士の塊、そこから伸びる鎖の先にジェア。
ジェアの頭の上に、痩せた少年。
……あれは誰?

少年は腰まであろうかという長い髪をたなびかせ、宙に浮いている。
ふと、その顔がこちらを向いた。
悲しげな青い瞳が、助けを求めるようにうるんでいる。

……あれこそ、ジェアだ。
男のものでも女のものでもない声が、耳元でささやいた。
いつの間にか、朱鷺が近くに来ていた。
……ジェアは、後宮の中で誰からも愛されず育った。
     愛情を知らないから、征服することでしか自身を表現することができない。
     もはやジェアは哀しみさえ忘れ、過ぎた力を手にしてしまった。
     あの少年は、ジェアに残ったひとかけらの良心。
     救う方法はひとつしかない……

そして、カスタネットの音がした。

メル・レー・トゥの目は、赤い剣を見ていた。
意識は、再び戦場の中にある。
『ハモンの剣』は暴れまくり、魔法兵士たちを斬り散らしていた。

両手の感覚が戻ってくる。
『ハモンの剣』はメル・レー・トゥをジェアのすぐ前まで運んだ。
翼もないのに、体がふわりと宙を飛ぶ。
鎖をつかんだジェアの顔が、間近に迫った。

魔力におぼれて赤くなっていた瞳が、一瞬青に戻る。
メル・レー・トゥは、おびえた少年の顔を見た。
その顔をめがけ、自らの意志をもって、剣を振り下ろす……!

*      *      *

エピローグ

王女メル・レー・トゥが『ハモンの剣』を振り下ろした時。
私もまた剣を握る仕草をして目を開けた。
今しもジェアの体を両断する、その瞬間……
私の前には、ワニの頭を持つ壷が転がっていた。
カビ臭いマスタバの中。
揺れるダルンダラの炎。
雌ライオンの棺。
王女の棺。

「悪しき力、それが『ハモンの剣』だ」
棺の向こうで朱鷺が長い首をゆらりと振った。
私は両手に目を落とす。
じっとりと汗がにじんでいた。
「力の重さを知ったか」
朱鷺は言う。
「かく認識したなら壷を開けよ。
 『ハモンの剣』を再び授けよう」

私は、ワニの壷にそっと手をかけた。
メル・レー・トゥの目から見たと同じ、紅玉石の板が入っていた。
手に取ってみると、かすかな熱を感じる。
それは物理的な温度ではなく、『ハモンの剣』が持つ悪の熱さなのだろう。

「紅玉石と緑柱石と、ふたつの力を認識したか」
朱鷺は問う。
私がうなずいて見せると、
「では、己の言葉でふたつの力を表せ。
 その時、力は己のものとなる」

私は、左手に緑柱石、右手に紅玉石を持った。
まずは左手を軽くあげる。
「はるかなるメルの時代から、変化した言葉をもって。
 『息吹(トゥ)』は『ブレス』に」
次は右手をあげて、
「『ハモンの剣』は、その悪しき作用を戒めて、消滅……『ヴァニッシュ』と呼ぶことにします」

「よい」
朱鷺は満足気に再び首を揺らした。
「されば、力は己がものとならん」
白銀の翼を広げ、ふわりと舞い上がった。
朱鷺は棺を飛び越え、マスタバの外へ出ようとする。

ふと、私の胸に小さな好奇心が湧いた。
「朱鷺よ。
 王女は……メル・レー・トゥは、後にどう生きたのでしょうか」
朱鷺は階段の方へと飛びながら、さりげなく答える。
「後ろの壁に」

私は、ダルンダラを動かして、闇に埋もれていた壁を見た。
女神官となった王女の前に、たくさんの人々が並んでいる場面が描かれている。
その群衆の中には。

私は思わず微笑んだ。

*      *      *

メルの都は、元の平和を取り戻した。
いや、元よりも、もっと豊かな国になっていた。
武力をかさに貢ぎ物を要求するシェメウ国はもうない。
メルの国は、良き王ヘセティ四世を父として、ますます栄えている。

王女メル・レー・トゥが最後の魔法を使った後。
ヘセティ四世は王宮に戻った。
王女の教育係であったウネベトに守られ、王妃も幼い王子と二番目の王女も、以前の暮らしを取り戻すことが出来た。
王弟デペイは、シェメウ兵との戦いの中で、命を落とした。
本来なら反逆者として王家の記録から抹消されるところを、ヘセティ四世の慮りによって、国を守って戦死したことにされた。

その叔父のミイラがやっと完成して、七十日目の葬儀を終えた時。
第一王女メル・レー・トゥは、正式に王家を辞去した。
女神官メル・レー・トゥの誕生である。

新しい女神官は、従来のような神殿を持ちたいとは思わなかった。
豪華な大理石やアラバスターは必要ない。
日干しレンガで作った簡素な建物で充分だ。
そこは清潔で明るく、誰でも入ることができる。
おなかをすかせた人にパンを、文字を知らぬ人に文字を、病を得た人に薬を、悩み惑う人に安らぎを、与えられる限り与えるための家を目指そう。

メル・レー・トゥは、膨大な仕事の波に飲み込まれることとなった。
なにしろ、母ルジェトが成し遂げられなかった大業を成就しようと念じているのだ。
全ての人に幸せを。
言うは易いが、行うはあまりにも難し。
そもそも、何から手をつけていいものやら。
各地の状況を報告する陶片の山を見ると気が遠くなりそうだ。
しかしそれは、同時に闘志を覚えることでもあった。

質素な祭壇を見れば、朱鷺の像がある。
最後の戦い以来、ついに再び姿を見ることはなかった。
それでも、メル・レー・トゥの心にはいつも朱鷺がいる。
くじけるようなことがあれば、カスタネットの声が叱責の色をおびて響くことだろう。
戦おう、とメル・レー・トゥは思った。
誰かが悲しんでいる姿は、見たくないから。

思えば、ジェアだとて、かわいそうだった。
征服するという形でしか、自分を表現することができなかった。
デペイ叔父もそうだ。
所有するという概念でしか、人を愛することができなかった。
幸せのありようを知らないことが、ふたりを過ちに向けたのだろう。
そして、セケムは……
メル・レー・トゥの心に、
「俺はノラ犬さ」
と自嘲した青年の姿がよぎった。
誇り高く生き、自由でありながら、なぜか己を卑しめていたセケム。
彼の心を痛めつけていたのは、何だったのだろうか。
答えのない問いが、押し寄せては消えた。
朱鷺の像は応えない。

代わりにセクメトが、心配そうに鼻を鳴らした。
メル・レー・トゥは友達を無視していたことに気づいて、祭壇の側にひざをついた。
甘えん坊の雌ライオンは、猫のようにすりよって、白い腹毛を見せる。
王家を離れたとは言え、セクメトだけは、いつまでも一緒なのだった。
あごの下をなでてやると、うれしそうに喉を鳴らした。

「メル・レー・トゥ様」
想いにひたっていると、神官の呼ぶ声がした。
「新しい神殿のために、人足になりたいと言って来た男がおります」
メル・レー・トゥは人事を人任せにせず、末端までも目を配ることにしていたのだった。
忙しくなっている。想いにふける暇などない。
メル・レー・トゥは人足志願の男に目通りを許した。

まずは神官が現れ、恭しく礼をする。
その後ろから、ずるぺたとサンダルを引きずるような足音が続いてきた。
やがて、ひょろ長い人影がこちらへ歩いてくる。
肩幅ばかりがヤケに広くて、骨張った脚はひどいガニ股だ。
足に劣らず長い腕を折り曲げ、伸び切った髪の毛をかき回している。

明かり取りの窓からさす細い陽光が、人影の顔の部分を射た。
眉間でつながりそうな濃い眉、細い目、無精ひげの伸びた丈夫なあご。

人足志願の男は、メル・レー・トゥの前に出ると、おじぎをする代わりに頭を掻いた。
大きな口の端から尖った犬歯をのぞかせて、気恥ずかしそうに言う。
「ノラ犬やめて、飼い犬になろうと思ってさ。雇ってくんない?」
トボケた言いぐさに、メル・レー・トゥは、しばしポカンとしてしまう。
セクメトの瞳孔がみるみる大きくなった。
雌ライオンは「会いたかったわ!」とばかり一声吠えて、男の胸に飛びついた。
男は仰向けにひっくり返る。

「大丈夫か、セケム!」
メル・レー・トゥは、慌ててセクメトの首をつかみにいった。
セケムは片目をつむり、いつものように笑った。

終わり 

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