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■レムラー・ヴァッサブロート

【タイトル】 アゼリアの娘
【作者】 レムラー・ヴァッサブロート

「アゼリアの実?あんな物、硬いし酸っぱいだけさ。
待っても干からびるだけで、決して熟さないのさ。」

 そう言われていたころのお話です。

 ルーアン地方の小さな村に、アゼリアの木が目印の
母親と娘が暮らす家がありました。

「いい女ってのはな、身持ちが堅くって、熟れるまで
時間がかかるものさ。こいつも同じさ。」
生前、娘の父親は、アゼリアの木を撫でながら、い
つも娘にそう言い聞かせていました。

 父親は、家族のようにアゼリアの木を大切にしまし
たが、ひとつも熟れた実を得ることはできませんでし
た。

 母親と娘も、同じようにアゼリアの木を大切にしま
した。

 娘が一六の冬、流行り病が村を襲い、村人たちは次
々と病に倒れていきました。

 病は娘の母親にも襲いかかりました。 
最期まで娘の身とアゼリアの木を案じながら、娘の
母親は息を引き取りました。

 独り残された娘は、懸命にアゼリアの木を寒さから
守りました。

 凍てつくような寒い朝のこと。
娘は一つの干からびたような実が、アゼリアの木か
ら落ちるのを見ました。
拾って硬い皮を割ると、赤く染まった果肉から果汁
がこぼれ落ちました。
口に含むとほんのり甘い香りが広がるとともに、力
が湧きあがるのを感じました。

 娘は、同じように干からびたような実を選り集め、
果汁を気付け用の酒に混ぜ、村人に分け与えました。
すると、病に伏せていた村人たちが次々に元気を取
り戻しました。

 翌年、再び流行り病が村を襲い、村人たちはこぞっ
てアゼリアの実を求めました。

 しかし、彼らが得られたのは青い未熟な実ばかりで、
熟したものは一つとしてありませんでした。
いつしか村人は、「去年の果汁が赤かったのは、死
んだ母親の血を混ぜたに違いない。あれは悪魔のまじ
ないだ」と噂するようになりました。

 娘は村から姿を消しました。
娘を悪魔だと信じた村人たちは、彼女を探そうとは
しませんでした。

 後に娘の家の前を通りかかった子供が、干からびた
アゼリアの実をついばむ小鳥を見つけました。
その嘴には、血のように赤い果肉がありました。
こうして村人たちは、娘の行いが悪魔のそれでない
ことを知りました。
慌てた村人たちは娘の姿を探しましたが、その姿を
見つけることはできませんでした。
娘は失意のうちに亡くなったとも、遠くのどこかで
村を見守っているのだとも言われています。
ただ、そのあと一度として、流行り病が村を襲うこ
とはありませんでした。

 村人の末裔たちは、アゼリア・ロゼのカクテルを手
にした旅人を見かけると、娘の話をしてからこう話し
かけます。
「アゼリアって甘ずっぱくて、ほんの少し苦味がある
だろう?
知っているかい?その苦さは、村人たちの娘への後
ろめたさでできているのさ…」

■レムラー・ヴァッサブロート

【タイトル】 手帳の戦士
【作者】 レムラー・ヴァッサブロート

 「ぐわっ!」
 男の身体が一瞬宙に浮きかけたが、強い力で引き戻
された。
 「こ、これだけは…」
 彼は苦痛に顔を歪めながら、左手で手帳を広げ、震
える右手のペンで何かを記そうとしている。
 本来なら彼は、ボースへの貨物船による窮屈ながら
も安全な空の旅を続けているはずだった。
 しかし、数分前、激しい衝撃が船を襲った。
 船長の負傷、オーバルエンジンと方向舵の損傷。
 これらが操縦室が得た情報の全てだ。
 そして、これらが何によってもたらされたのかは明
らかになっていない。

 「ヴァレリア湖に向けてくれ!着水する!」
意識を失った船長の代わりに指揮をとる機関士の声
が飛んだ。
「ダメですっ!北に流されてます!」
「北だと?!霧降り峡谷に突っ込むぞ!」
操縦室内に悲痛な叫び声が響き渡った。

 不意に男の右のこめかみが熱くなる。
遅れて右目に赤い膜が下りてくる。痛みは無い。
しかし、右手に持ったペンは震え、左手の手帳の上
を飛び跳ねていた。
男の手帳は、このような事態でも容易にメモが取れ
るように作られていたはずだった。
男の手でそのようにデザインされたものなのだから。
自らの仕事を試す絶好の機会であるはずだった。

 『ボースの飛行場から、遊撃士が派遣されると回答
あり』
しかし、その短い文が思うように書きとれない。
船体は左右に激しく揺れ、時折上へと飛び跳ねる。

「降りるぞ」
覚悟を決めたのか、静かな声で機関士が言った。
「わかりました」
応じる操舵士の声は、微かに震えていた。
男が顔を上げると、割れた窓の先に霧降り峡谷の
山々が迫っていた。

 「ダメか…」
男の口から力のない声が漏れた。
霧に覆われていてさえ、はっきりと見えるほどに山
は近づいていた。
男は迫る山を避けるように視線を落とした。
ふと見ると、右手の震えは治まっている。
男は静かに手帳へとペンを走らせた。
普段の彼のものとは比較にならないほどに乱れてい
たが、手帳には確かに文字が記された。
冒頭は、より鮮明な文字でこう書かれていた。
「フィネ、イェフへ」

 「行くぞ!」
機関士の声が飛んだ直後、男は自分の身体が床から
突き上げられるような衝撃を感じた。
身体を折って耐えると、今度は下腹が締め付けられ
るような痛みに変わった。
男は、手帳を守ろうと折った身体の間に挟み込んだ。
締め付けが徐々に緩やかになり、痛みが弱まってい
くと、次は後ろに向けて天地がひっくり返った。
目の前が暗くなり、男の記憶はそこで途切れた。

 男の乗る船がボースの遊撃士たちによって発見され
たのは、それから八時間後のことであった。

F.J.バウアー社手帳博物館。男は現在、そう呼
ばれている場所にいる。あのときの手帳共に。


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